40,
アンリは見ていた。
タイラーが恐怖する様も、リバイアサンが近づく様も。
最後の別れを惜しむ。竜の面を見つめ、恋い慕う。
深い深い情愛をたむけて、アンリはその手をめいっぱい伸ばした。
リバイアサンのおかげで夢を見ることができた。
別人になり、名を明かさず、もう一度出会いから始める。彼が選んでくれることを待ち望んでいた。アンリのままでは、タイラーが見つめる仮象を演じてしまう。
それだけが私ではない。アンリは叫びたかった。
リバイアサンがかけてくれた魔法がもたらす夢物語で、タイラーはもう一度アンリを見つけた。
そして、気づく。
魔法なんて最初からいらなかったんだ。
ただ、伝えればよかった、と……。
タイラーの後悔を反転したように、アンリもまた後悔していた。
お願いすればよかった。
もっと、甘えたいと言えばよかった。
しっかりしていない自分をもっとさらせばよかった。
そのポケットに隠し持っている物を、欲すればよかった。
シーザーの存在を隠し、タイラーと共にいることを望んだアンリもまた、カフェのガラス越しに彼へと映しこんだ自己像を見つめて、嘆いていた。
望むまま求めては、愛されないのではないか、と……。
リバイアサンは大きく口をすぼめた。そこからぶううぅぅと吹き出された息に、タイラーとアンリは飲まれる。ロビンの沈む肉体が、リバイアサンの腹に触れた瞬間。
世界は、再び泡立った。
白い泡が勢いよく海中にて、四方に広がる。
タイラーとアンリは、優しく吹きかけられた竜の吐息と、泡の勢いに飲まれて、海中を躍った。しっかりとタイラーはアンリを抱き、アンリもまたタイラーにしがみついていた。
水圧に押され、抱き合いながら翻弄される。
勢いに飲み込まれ、海水にもまれていた時間は換算すれば十数秒に満たなかっただろう。二人の意識下でのみ、秒の時間は万倍に引き伸ばされ、永遠に海へただよう藻屑となる錯覚に沈んでいた。
勢いが弱まり、タイラーは身を動かす余裕を感じた。
目を開くと、黄色くゆらぐ光が見えた。それを目印に、泳いだ。
アンリがきている服が水を吸い重い。服を着て海に入るもんじゃない。痛感しながら、もがき続けた。
ざばんと海上に、顔を出した。そこは洞窟のなかだった。
沖からここまで流されてきたのかと、タイラーは呆気にとられる。
上を見れば、洞窟の天井にあるぽっかりとあいた穴から、丸い月が見えた。
タイラーはアンリを抱いて、陸へと向かう。
ごつごつした石が転がる足場の良い場所があり、座りやすい石に腰掛けた。
アンリを太腿の上に抱いた。
波が寄せれば、ふくらはぎあたりまで海水につかる。引けばくるぶしあたりまで海水面は下がった。
タイラーは嘆息し、アンリの体を抱きつつ、その身にもたれる。横に抱いた彼女の二の腕に額を寄せた。
「濡れちゃったね」
アンリは素っ気ない。スカートの裾をたくし上げ、べっちゃりの水を吸い込んだ布を絞っている。
アンリらしいね、とこぼしそうになった言葉をタイラーは飲み込んだ。この状況を恥ずかしがるか照れるなりしている彼女の表現かもしれないと思い至った。
彼女の二の腕にかけていた額を離す。アンリの横顔が目の前にあった。スカイブルーの髪色は栗色へ戻っている。
なによ……。そう言って、恥ずかしがるソニアと名乗ったアンリもまた彼女なのだ。
手を伸ばして、アンリの額から、前髪をあげて後頭部に向かって一撫でした。髪から、海水がぼたぼたと流れ落ちた。
もう一度額に手を当て、撫でる。
アンリが気持ちよさそうに目を閉じて、手の動きに合わせて、あごをあげて、上を向いた。
タイラーは微笑する。
「愛してます。どうか、俺と結婚してください」
アンリの両眼が開き、眉が少し歪んで、泣きそうな表情を見せたかと思えば、タイラーの首筋に抱きついた。肩に額を押し付ける。
泣くかとタイラーは思った。けど、泣かなかった。ただじっと抱きついたまま、身動き一つしなかった。
タイラーは彼女の抱きしめて、その身を撫でた。
目線を遠く投げる。光の粒子ただよう青々とした空間の出入り口に、船の影が見えた。シーザーの迎えが来る。
「ねえ、アンリ。どうして俺なんだ。君はどうして、俺を選んでくれた」
アンリからプロポーズの返答も得られていないなか、タイラーは彼女に問うていた。
アンリにはシーザーがいた。少しぐらい欠点がある男は山ほどいる。タイラー自身、欠点は山のようにある。三年前は稼ぎだって並みだ。今の半分も稼いでいない。容姿も普通、水泳をしていたため体格は悪くない。だが、シーザーのような資産も容姿も持ち合わせていない。こんな男のどこに彼女にとっての価値があったのか……。
理解できないまま、旅をしてきた。
アンリが抱きついていた腕を離す。
「笑わない」
「笑わないよ」
アンリがどんな理由を述べても、それが彼女の理由なら、タイラーは受け止めるだけだ。なにを言われても大丈夫と、その時までは思っていた。
「あなたに抱かれた最初の夜。あなたの手が私を撫でた時、閃いたの……」
そんな時までさかのぼるのか、とタイラーはひっくり返りそうになる。平静を装うあまり、薄笑いを浮かべてしまった。
アンリは気にせず続ける。
「この人は、出世する人だって……」
喉が詰まった。返答に困り、開いた口がそのまま閉じなくなった。
ポカンと口が空いたタイラーは、人生で最も間抜けな顔をしていたことだろう。
アンリが申し訳なさそうに見つめてくる。
「俺が……」
当時は、二十歳そこそこのまだ仕事もしていない、学生である。そんな時期に、アンリがそんな慧眼を得ていたなど察しようもない。
「元々、タイラーは私が好きだったでしょう」
アンリとはじめて会った時から、タイラーは彼女が好きだった。一目惚れと言ってもいい。知られていたのはいい、そうだろうと予想はできている。
「あなたの隣に立って、あなたが私を見つめる時、『ああ、この人は私が私を思うより、なんて私のことを好きなんだろう』と感じたの」
ただただ彼女が語る一言一言が、その愛らしい声音とは裏腹にタイラーをかき乱す。
「シーザーは重かった。過去につきあっていた数年で、あの人の重さは私には抱えられない。きっとまた別れることになると思っていたの。
シーザーはだめなの。私が自由になれないの。
タイラーがいいの。あなたじゃないと嫌だったの」
耳を疑いたい。頬をつねって、これが現実かと漫画の登場人物のように確かめたくなる。
「あなたの隣は心地よい。あなたの隣にいたいの。逃げられたくなかった。別れる理由一つあなたに見つけてほしくなかったのよ」
とたんに、かあぁっとタイラーは全身が火照る。ありありと耳まで真っ赤に染まりきった。
「あんな天啓を得て、私には、あなた以外の選択肢はないわ。あなたと……、ずっと一緒にいたいの……」
タイラーはおもむろに、胸に潜めていたリングを通した鎖を握った。途中、引っかかっても、そんなことは関係ないとばかりに、むしり取った。
そのままアンリにリングの鎖をかける。
急に額に鎖がかかり、アンリも目を丸くした。指先で鎖を手繰り寄せ、アンリは躍るリングを胸元に輝かせた。
髪色を映すピンクゴールドの指輪をつまみ、アンリは嬉しそうに微笑した。
タイラーは必死になって叫んだ。
「アンリ、どうか、俺についてきてくれ。これからも俺とずっと……、ずっと一緒に生きてほしい」