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 フライパンを洗いながらタイラーは背にかすかに残るアンリの感触に思いをはせる。ふいに恐る恐る触れてくる甘えは、自分しか知らないアンリの特別な一面であることをタイラーはよく分かっていた。

 いつ帰るか知れない出張でしばらく会えなくなることを惜しんでくれる。道すがら手もつながない距離感を保ちつつ、家のなかではさりげなく甘えてくれることがうれしい。アンリと一緒にいたいというタイラーの気持ちは、ささやかな日々の積み重ねによって育まれていた。


『生涯一緒にいてほしい』

 プロポーズリングが入った小箱はポケットのなかにしまい込んだままである。明日からいなくなるアンリに、今こそ手渡すチャンスだろうか。考えあぐねるタイラーであっても、愛しさが胸にくすぶる今のうちなら告げられるような気がした。


 皿まで洗い終えたタイラーが手に残った水滴を払う。シャワーから出たばかりのアンリが濡れた髪をタオルで拭きながら現れた。タオルで手をふくタイラーの横にアンリが立つ。

「いつもありがとう。タイラー」

 小さなことで、ありがとうと言ってくれるアンリ。その何気ない感謝がうれしくて、次もまた洗おうとタイラーは思う。


 冷蔵庫を開けながら、アンリが「なにか飲む」と尋ねてくる。

「ビールある?」

「ないわ。前に開けた赤ワインならあるけど、いい」

 三分の一ほど残っているワインボトルの首をつかんで掲げて見せる。

「うん、いいね」

 グラスを二つ棚から出したアンリが軽やかにローテーブルに弾んでいく。


 アンリはいつも床に座る。タイラーがソファーに座ると、足に寄りかかり、赤ワインを注いだグラスを一つ差し出した。受け取ると、タイラーの太ももに肘をのせ寄りかかってくる。

「準備しなくて大丈夫なの」

 グラスに入った赤ワインをアンリは舐めながら「少し、休んでからね」と言ってタイラーの足にもたれて目を閉じた。


 グラスに入った赤ワインを飲み干して、ボトルに手を伸ばした。かすめ取るようにアンリの手が伸びて、ボトルをつかんだかと思うと、「入れてあげる」と赤ワインが入ったボトルをタイラーが手にしたグラスに向けて傾けてくる。

「ありがとう」

 テーブルに置かれたアンリのグラスには、まだ半分ほど残っていた。

「アンリはそんなに飲まないよね」

「味見出来たら満足なのよ。残りは、よかったらぜんぶ飲んで。明日からいないもの。残しても仕方ないわ」

 立ち上がったアンリが、棚に置いた仕事用のカバンを持って寝室へ消えていった。


 タイラーは、ボトルを空になるまでゆっくりと飲むことにした。アンリのバタバタする動きを背後に感じるものの、手伝う方が邪魔になる。数回グラスに注ぎ入れたワインボトルを傾けると、最後の数滴がグラスに落ちた。

 彼女が残したグラスにわずかに残った赤ワインにも手を伸ばす。それさえ飲み干し、ソファーに座ったまま、腕を上にあげて伸びて体を左右にひねってから、タイラーは立ち上がった。

 台所で、空にしたボトルを水ですすぎ、そのまま台所へ置いておく。グラス二つもすすぎ洗いをし、ふきんでふくと棚に戻した。

 アンリの家では彼女のルールに従っている。やればできるものだとつくづくタイラーは思う。


 後は寝るだけとなり、タイラーが寝室に入ると、アンリがクローゼットから出したスーツケースにしまい込む荷物を確認している最中だった。

「もう居間には用事はないかい」

 タイラーが声をかけると、顔をあげたアンリが「ないわ」とそっけなく答え、またスーツケースにしまい込む物の確認に戻っていった。

 タイラーが寝室以外の電気をすべて消し、扉を閉める。壁面にある本棚を眺め、一冊手に取ると、ベッドへ転がった。

 アンリがスーツケースのふたを閉める頭上にタイラーの服がかかっている。本を開きつつも、アンリの背を盗み見るタイラー。ポケットにしまった小箱を取りに行くか行かないか。取りに行くならどンなタイミングがいいか思案していた。

 

 アンリがスーツケースの蓋をしめ、それを立てて壁に寄せる。開け放していたクローゼットも閉じ、ベージュのカバンはスーツケースの手前に置いた。

 今回の出張は軽装のようだ。海洋に出る時のような重装備を準備しているようには見えない。


「今回は、荷物が簡易だね」

 本を閉じ体を横にしたタイラーはアンリに話しかける。

「観光地みたいにきれいな場所に行くの。そこから見える小島が目的地なのよ」

 ベッドの脇に座るアンリが、体をひねりタイラーの顔を覗き込む。

「人魚島と言うのよ」

 手にしていた本をベッドサイドに置いたタイラーがアンリの首に手を伸ばした。少し触れるとくすぐったそうに身をよじり、タイラーの手にアンリの手が添えられ、引き離そうとする素振りを見せた。待ってとじらすようなアンリの手つきに、一旦タイラーは手を引いた。


「古くから住む漁民が、伝統的な漁で生計をたてているの」

 アンリがベッドに上がり込み、タイラーの横に座りなおす。

「海に潜って魚介を採取するのよ。潜水時間も長いらしいの。長年続く漁法から心肺機能が高くなっているのかしらね」

 ふーんと聞き流しながら、アンリの足に触れた。特に嫌がる様子がないのでそのまま撫でる。

「そういう海に潜る習慣があるものだから、何らかの形でリバイアサンと遭遇することもありそうよね」

 夢中になり話始める彼女はいつものアンリだ。

「海に潜っている最中に、あの大きなリバイアサンが目の前にきたらどうしよう。私なら、食べられると思ってしまうわ。サメに遭遇するぐらい恐ろしいことよね。

 そういう目撃ケースが募っていけば伝承もいくつか生まれても当然だわ。

 島独特の不死伝説が生まれてもおかしくないのかもしれないわ」

 アンリの腰に手をまわし、太ももに顔をうずめた。

「今回は伝承の確認にでもいくのかい」

 頬ずりしながら訪ねると、アンリの手が頭を撫でた。

「それもあるわ」

 アンリはそれきり口をつぐんだ。


 抱きついたまま、プロポーズは後にしようとタイラーは思った。明日から忙しいアンリを悩ませても仕方ない。戻って、落ち着いたところで切り出そう。時間はまだあるのだから。言い訳を並べているものの、本当はアンリに触れたことで離れがたくなった。

 少し酔っている。アンリの太ももに顔を寄せたら、いい匂いがした。

 明日からいないのだ。タイラー自身もアンリがいない数日がとても寂しい。

 

「島にいく船が出る街がね、すごくきれいな海辺の街らしいのよ。観光地というほど栄えてもいないらしいけど、富裕層向けに知る人ぞ知るような別荘地もあるらしいの。

 噂通りきれいな海辺の街だったら、今度一緒に行ってみない。タイラー」

「そうだね。アンリが気に入る海辺の街なら、俺も一緒に行ってみたいよ」


 海難事故の一報を目にしたのは、それから数日後のことだった。


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