31,
「リバイアサンと同化するだって……」
絶句するタイラーにアンリは柔らかくほほ笑みかける。
「不思議でしょ。死にかけた竜と死にかけた人間が融合して、生き残りをはかったのよ。海難事故に巻き込まれたあの日に何があったか聞いてもらえる?」
拳を握りしめ、つばを飲み込み、息を呑んで、彼女の言葉と向かい合う。タイラーは身構え緊張する。穏やかすぎるアンリに鬼胎を抱く。
「海に投げ出され、海水を飲み込んだ私は、上も下も分からない状況でもがいたわ。もうダメだと思う間もなかった。意識が薄れゆくなか、大柄な竜の両眼がらんらんと光るさまを見たの。藻やプランクトン、海藻を食べる竜だけあって、草食動物のような優し気な瞳だったわ。
竜に食べられて死ぬなんて本望と私なら思いそうだけど、海中にいる時はそこまで意識は動かなかった。もがきすぎて、壊れていたのよ。
体がふいに浮き上がったわ。ブクブクと泡立つ音に包まれ、大量の泡に飲みこまれた。異物が侵入し、芯から抉り出されるようだった。痛みがないまま、肉体感覚を失い、アメーバのように世界へ自意識が溶けだしていくの。竜の巨体が包んできて、溶けあう皮膚感覚を持って、肉体が再構成されていったわ。
シーザーに助けられた直後の記憶喪失は、リバイアサンの記憶との混濁から生じたものなの」
「海に投げ出されて、死にかけたんだな」
目頭が熱くなり、体が打ち震える。連動し、声も震えた。涙腺から漏れた小さな雫を飲み下す。
「竜の記憶から、なにが背景にあったか理解できたの」
アンリは女神のように微笑する。
「産卵を終え、海底に戻る途中、リバイアサンは船と遭遇した。船から強い光が照射され驚いたのね。入江へもぐりこんでしまった。イルカのような超音波で周囲を確かめるのだけど、入り組んだ入り江から跳ね返る振動が多すぎて、方向感覚を失った。光といつもと違う空間に怯えたのね。初めての産卵で、彼女も色々不慣れだったのよ。
しばらく入江のなかを回遊し出口を探そうとして失敗して、沖に戻るためにいったん海上へとあがってきたところで船体の底とぶつかってしまった。竜の体当たりを受ければ大きな船でも無事ではすまない。ましてや、長年使い古された定期船ならば川に浮かんだ枯れ葉も同然だわ。
産卵と不要な回遊での体力消耗に加えて、船への体当たりで傷ついたリバイアサンもまた死にかけていた。
海に投げ出され、命の灯が消えかける私を、弱ったリバイアサンは依り代に選んだ。互いに、その選択以外生き残る術が残されてはいなかったのよ。
リバイアサンの依り代に選ばれた人間にも恩恵があるわ。若返りと治癒。見ての通り私は十歳は若返っている。
泊めてもらったおばあさんも、元人魚姫よ。彼女は不治の病を患っていた。リバイアサンと同化することにより完治した、生き証人なの。
弱った竜が、人間を依り代にしてその体内で眠りにつき回復を図る。これがこの地域独特のリバイアサンと人間の共生のあり方だったのよ」
一気に言い終えたアンリは肩を上下させる荒い呼吸を繰り返す。興奮を鎮めるかのように、大きく息を吸い込み、吐いた。
「分かるでしょ。私がロビンを連れてきてとお願いする理由が……。
どうか、私たちを助けてほしいの」
すがるような目で嘆願する。
「彼女の体を、治したいんだな」
意図を汲み取ったタイラーは重々しい口調で確認する。
「不死伝説の真相は、リバイアサンの同化であり、ロビンとリバイアサンを同化させたいと。つまりは、そういうことだな」
返答を陶然と受けアンリは微笑み返す。
「不死伝説なんてまやかしだと思っていたが、あながち嘘でもなかったんだな」
「リバイアサンを食べると不死になるのは、真実に到達できなかった貴族側の逸話なの」
タイラーの背に嫌な汗がわき出る。アンリの饒舌に熱がこもり、言い知れない焦りがじくじくと募る。
「どこからか島の特殊な風習を聞きつけた古の貴族達は若返りや治癒を求めてやってきた。海辺近くで環境も良く長期滞在するようになり、外部から連れ込んだ建築士や芸術家の手により海辺の街は開発されたの。
現地の人々は貴族たちに伝承を秘密にした。青い髪の娘は珍しく、リバイアサンの件がなくても、貴族達に目をつけられたらしいのよ。
そうして、伝承と珍しい青い髪の娘たちを守るために島が隠れ蓑になった。時代が進むとともに海辺の街からは伝承が薄れて、それらは島にだけに残ったの」
滔々と語り続ける彼女から視線を逸らすことなく、タイラーは靴に手をかける。靴下ごと一足ぬいでは、背後の砂浜に投げ捨てた。両の素足を海水にさらす。ひんやりとした感触に身震いした。
「嫁ぐには二つの意味合いがあるそうよ。
一つは、青い髪の娘を貴族にさらわれること。もう一つは、人魚姫が海へ行くとリバイアサンに変化し地上に戻れなくなること」
「地上に、戻れないだと!」
足に重く絡まる海水を蹴り上げて、タイラーはアンリへ近づく。水音を激しくかき鳴らし、飛び上がった飛沫が衣類を濡らした。
「泡となり消えてしまうのよ」
タイラーはアンリが胸に寄せる拳の手首をつかんだ。
「行くな」
絞り出し言い放った。
苦渋の表情を浮かべるタイラーに、アンリは甘心の笑みを返す。
「色々考えたの。なかにいるリバイアサンとも対話したわ。竜にも相当な知性があるのね。条件を提示して、私たちの要望を飲んでくれたわ。
リバイアサンになり海へ戻り、陸に還らない人魚姫もいれば、リバイアサンから分離する過程で泡になり、その泡のまま投げ出された海から帰ってこないケースもあるのよ」
情熱的な語り口から、月の女神のようなたおやかな口調に変わったアンリに、タイラーの懸念は増長する。最初から、海に近づいてはいけないと知りながら彼女は足を海水につけている。始めから知っていて、海水に浸かっているのだ。
「本当に、詳しいな。それだけのことを知りながら、今まで黙っていたのか……」
口内はかれはて、喉は締められ、息がしにくく、声は低くなる。
「わかった。ロビンを連れてこよう」
始めから、リバイアサンに戻る気でここにきたな。彼女を責めたくなる気持ちをタイラーは飲み下す。
「明日一緒に街に戻って、明日船にのって海に行こう。なあ、今日はもう戻ろう、なっ」
なだめすかす口調の震えが止まらない。
「ロビンを連れてきて、私を迎えに来てほしい。タイミングを待っていたの。私は、あなたと一緒にいたい。私は、ロビンを助けたい。その両方を、成し遂げられるチャンスをずっとずっと待っていたのよ」
情熱的な輝きを放つアンリの双眸にタイラーは射貫かれる。
「お願い。タイラー、私たちを助けて」
彼女が一歩後ろへと後退した。