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30,

 アンリと過ごした最後の夜をタイラーは思い出す。


 待ち合わたカフェでショートサイズのコーヒーを注文し、窓際へ向かう。丸いテーブル席に座り、リングが納められた小箱を握る。蓋の開け閉めを繰り返し、愛しい女性ひとを待っていた。


 言い出せないプロポーズにやきもきし、時間だけ食いつぶしていた。

 好奇心をもって仕事に精力的に取り組んでいるアンリに引き目を感じていた。

 臆病で、意気地なしで、どうせ、俺なんか……、と一線を引いていた。

 

 過去の自分を、タイラーは考え過ぎだと一蹴したい。

 躊躇しすぎであり、お互いの将来についてさりげなく事前にほのめかしてもいない。聞きもしないで悩んでも杞憂に終わる。臆病が高じて切り出せないなど、愚かとしか評しようがない。


 額に汗して駆け寄ってくる女性を、抱きとめられない。それほど自信がなかった。そもそも自信をつける行動が足りない。劣等感を抱いても、嫉妬もできない。少し高いところにいる女を理由分からず手にして、捨てられないかとビクビクしていた。彼女を失えば、人に誇れるものなどなにもなくなってしまうと錯覚していた。

 努力していない男が、なにをはなはだしく誇るというのか。


 甘えることを好まない。劣等感が不安や恐れとなり、そんな虚像を彼女にうつし見て、引け目から遠慮がちに接していれば、甘えたくても甘えられないのは至極当然だ。結果として彼女に寂しい思いをさせてしまった。


「ごめん」

 申し訳なさが沸き立ち、謝罪をこぼしていた。

「俺が悪い」


 アンリがきょとんとする。

「なにを謝るの」

「いや、俺が悪かったなと思って……」

 複雑な表情のまま、沈黙が流れる。


「寂しかったよ。君がいなくて……。

 俺は君の家族じゃなかった。遺品を受け取るような立場にいない。アンリの死を真っ先に悲しみ、嘆く立場にいなかった。

 俺に残されたのは、二人の思い出と、心の中に残された君の姿だけだったんだ」


 アンリを失い日常が瓦解した。夜の時間が急に寂しくなった。時間と心の空白を埋めるため、彼女の心象と同化した理想像にがむしゃらに手を伸ばした。

 研鑽を持って理想が顕在化していく。結果が出始めると、彼女を身近に感じた。


「俺、けっこう頑張ったんだ。君がいなくなって、ぽっかり空いた穴を埋めるために……。君のように仕事に情熱をかけた。営業成績一位になるまで一年かかったけど、シーザーと出会って飛躍して、一位の常連にまでなれたよ」


 理想が現実化し、心象のアンリはタイラーに取り込まれる。

 

「君に押し付けていた理想像を俺は手繰り寄せた。俺は、君を失って、やっと自分で進み出して、自分のありたい姿へと成長したんだ」


 そんな旅の果てに、もう一度、アンリとの恋が実るとは思わなかった。


「もう一度、君を愛せるとは思わなかった」

「私もあなたに、もう一度、愛してもらえるとは思わなかった」


 あらためて、アンリの容姿をまじまじと見つめた。この数日ソニアと呼び慣れた二十歳そこそこの少女がいる。髪は長く、肌も白く瑞々しい。背格好は似ていても、髪色、瞳の色、年齢が違えば別人としかとらえれない。

 そもそも、人間が若返るなどありえないはずだ。


「分からないことだらけだ。なぜその髪色で、君は若返っているんだ。どうして、アンリだと自覚していながら、記憶を失ったソニアという少女のふりをしていた。

 家族も心配していたのに、どうして帰ってこなかった」


「いっぺんに言われても、私もどこから話したらいいのか分からないわ」

 戸惑いながら、アンリはタイラーの胸に手を押し当て、突き放す。密着していた互いの体に距離がおかれる。


「これだけ、姿が違うのよ。帰れるわけないじゃない」


 降りそそぐ月明かりが水面に反射して、黄みがかった光の粒子が彼女の周囲にただよう。白いワンピースを着た、青い髪の少女は、幻想的な妖精のようにたたずむ。その細い指先を胸に押し当て、悲し気にほほ笑む。


「しばらく混乱してて、記憶もあいまいで、あまり思い出せなかったのよ。記憶がすっかりつながった時には、事故からすでに数か月経過していたの」


「そんな事情があったのか……」

 矢継ぎ早に問いを投げて、配慮が足りなかったとタイラーは恥じた。


「いいのよ。みんな私のことは死んだと思っていたはずよ。そこにのこのこ現れたらどうなると思う」

 アンリはおどけて、くいっと肩をすくめる。


「この姿で突然現れて、アンリと名乗るのよ。ふざけるなと怒られそうじゃない」

 タイラーも今しがたまで気づかなかった。自身を振り返れば、彼女の言い分も納得するしかない。


 彼女が一歩二歩後退し、足首まで海水につかる。

 タイラーは洞窟を背景に浮かび上がる幻惑的な少女の姿に魅入るあまり動けなかった。


「ロビンも置いていけなかったの。あの子の力になれるなら力になりたかったの。あの子が気兼ねなく一緒に居れるのが私だけだったから離れられなかった」

「戻れないだけの事情も、ロビンを心配しているのもよくわかるよ」


「ごめんなさいタイラー。私たち、賭けていたの。もう一度、あなたが私を見つけてくれることを……。あなたに見つけてもらえたら、私はあなたの元へ帰れると思ったのよ」

「俺は君を見つけた。一緒に帰れるだろう」

 ソニアがふるふると首を横に振った。


「お願いがあるの。ロビンを連れてきてほしい」

「ロビンを、どこに?」

「海の上がいい」

「海の上?」

「海で待っている」

「待っているって……」


 アンリの語る意味がわかりにくかった。


「不死伝説は嘘よ。竜の肉を食べても、不死にはならない」

「それはそうだ。今さら確認するまでもないだろう」


「でもね、伝承はあるのよ」

「おばあさんが話していた、人魚姫のことだろ」


「ここは海に潜る伝統漁があり、その漁ではもっぱら女性が海へと潜るのよ。彼女たちはおのずと身近にリバイアサンと出会うことがあったと考えられるわ」

 

 高台から下る時にすれ違った女性の一団を思い出す。


「リバイアサンはこの入江に産卵のために来ていたの。

 この島の周囲、特に海側の海底にはリバイアサンの卵がたくさん産みつけられる産卵場所なのよ。産卵後に命を絶つ魚もいるでしょう。同じよ。産み終わったリバイアサンもまた体力が著しく落ちているの。

 そんな弱り切ったリバイアサンの前に人間があらわれる。


 どんな偶然から共生が生まれたかまでは分からない。ただそこに伝承があり、生き証人がいるだけ……。私も、坂をのぼる途中で見た少女も、あのおばあさんも……。


 人魚姫と呼ばれる、青い髪の女の子たちはね。リバイアサンと同化した女性達なのよ」


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