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29,

 タイラーはひるむ。しまったと顔に出た。取り返しがつかないと青ざめ、ソニアを傷つけたと自責の念に胸苦しくなる。

 彼女が両腕を伸ばし、タイラーの首に抱きついてきた。


「ソニア!」

 予想外の彼女の行動にたじろぐ。

「俺、名前を……」


「もう一度、私を見つけてくれて、ありがとう」

 声が震えていた。泣いているのか、喜んでいるのか、察しきれない。


「もう一度……」

 タイラーはただ狼狽する。


「私ね、あなたに甘えたくて、可愛がってほしかったの」

 腕の力をゆるめ、見つめてくるソニアの頬が赤らいでいた。


「なにを、いまさら……」

 うろたえるばかりで、抱きとめることもせず空に浮いた両手が震える。つま先を立て、首に抱きつく彼女の腕に再度力がこもった。あたたかくやわらかな肢体がしがみいてくる。タイラーは身を投げるようにぶつかってくる彼女を全身で受け止め、もつれて転びそうになったところで腰に腕を回し支えた。


 ソニアが首筋にすり寄ってくる。

「もっと女の子らしくしていたかった。立派な人みたいに思われるのも悪くないけど、時々は寂しかった……」


 タイラーは彼女がなにを言っているのか分からない。混乱のまま呆け、声もろくに出なかった。

「もう一度、あなたと出会って、あなたが私を選んでくれて、うれしくて仕方ないの」

「だから……、もう一度って……」

 

 彼女が迷いもなくタイラーにしなだれかかる。勢いのあまり、倒れそうになった。踏ん張ると、途端に前かがみになり彼女の肢体が反り返る。

 絶大なる信頼を寄せるかのように彼女を支える腕に体重をかけてきた。よろめき、バランスをとろうと足に力が入る。転倒しないことだけ意識し、彼女の腰と背を二の腕で抱き支えた。タイラーは呆けたまま、状況が呑み込めない。


「あなたが、すごく……、大人だった……」

 抱きついていた腕をほどき、その手でソニアがタイラーの頬を包む。瞳は潤み、うっとりと蕩けている。あまりの色香に息をのんだ。


「どうしていいか分からなかったわ。頭を撫でられて、手を繋いで、抱きしめられて、額にキスして、好きだと言われて、愛してるとささやいて……」


 このまま転んでもいい、海水に濡れたってかまわない。そんな彼女の体勢を、タイラーは全身で辛うじて支える。間の抜けた表情を浮かべ戸惑いながら、歓喜に震える彼女の表情から目をそらせない。


「電球を取り換える時にキスなんて……。あなた、そんなに手が早くなかったはずよ。苦心して、ベッドに誘った過去が嘘のようだわ」

「誘うって……なにさ」

「気づいたんでしょ。

 ねえ、買い物から帰る途中、やけ酒が半分嘘だったって……」

「あっ……」


 彼女が片腕をタイラーの首に回す。ぐっと力を込めて、反り返った体を伸ばす。タイラーの肩に頬を寄せてきた。密着する体にタイラーの心音は早まるばかりだった。


「ア……ン、リ」

 彼女は嬉しそうに、頬ずりする。

「アンリ……、アンリなのか」

「そうよ。本当に、今まで、気づかなかった?」


 タイラーの表情に戸惑いの色が濃くなる。驚愕が脳天を打ち、世界が鮮やかな色彩をまとう。放心し消えかけていた意識が舞い戻ってきた。


「気づくわけないだろ。年齢が違う。髪色も違う。服装の趣味だって……、やることは忘れるし、伝言だって忘れてたら……、まるで、まるで違う人だった。

 もっと仕事ができて、隙が無くて、さっぱりしてて、甘えるなんて外では好まない、キビキビした情熱的な女性だった……はずじゃ……」

 彼女が少し寂しそうに笑み、タイラーは戸惑う。

「なかったか……」

 声は尻つぼみに消えていった。


「ねえ、タイラー。それも私だけど、これも私なのよ」

 手のひらをタイラーに向ける。

「お願い、手を合わせて……」


 ひとまわりは大きい手を彼女の手に重ねる。


「三年前の最後の夜、私たちはカフェのガラス越しに手を合わせた。鏡越しにあなたは私を見て。私もあなたを見ていた。

 あなたは子どもで、私に甘える人で、優しくて、少し頼りないの。意気地なしで、お人好し……」

「君に比べられたら、あの時の俺は……」


 合わさる手があたたかい。彼女がすり寄れば、盛大な心音がさらに高鳴る。


「今は別人のようね。いったいどうしたのかと思った。おずおずとした自信のない少年の面影が消えて、大人の……、男だった。

 お酒の席で、私の口をつけたグラスに手を出して、あんな目で見られたら、あのまま食べられるかとそそられたわ」

「いあ、あれは……」

 シーザーの面影を恐れていただけで……その気はあった、とまでは言えず、口ごもる。


「大人のあなたに、もう一度ドキドキして……。もう一度、あなたに恋していた……」


 あの夜、ふわりと軽やかに駆け寄ってきたアンリが思い浮かぶ。ガラス越しに見た彼女は、明るく、快活で、しなやかで、柔らかい。

 

「甘えたいって……あの時から。まさか君が」

「そうよ」

「俺が頼りなかったから、ダメだった」

「互いにちょっとだけ寄りかかりすぎてたんじゃない」


 鏡越しにうつるアンリを思い出す。

 肩までの髪を揺らし、額に汗をにじませ、駆け寄ってきた。息が少し荒く、肩がわずかに上下している。嬉しそうに見上げて、笑いかけてくれた。あの時も、彼女は髪を耳にかけていた。

 ガラスは彼女と重なるようにタイラーの姿をもうつしていた。


「アンリ……、あの鏡越しに見た君に、俺が俺の理想を映して見ていたと言いたいのか」

 手を添え、彼女の手が伸びてきて触れても、そこにはひんやりとした一枚のガラスが阻んでいる。


「……俺は。俺は、アンリを失って……俺の中に残ったアンリを面影を追ったんだ。それしか、俺のなかの君の存在が残っていなくて……。

 アンリの仕事ぶりに憧れて、憧れるあなたと同化することで、あなたとの時間が無駄じゃない、あなたと一緒に過ごした日々を忘れないようにしていたんだ」


 長い時間を共に過ごし、アンリはこういう女性だと知ったつもりでいた。甘えたかったなんて、気づきもしなかった。

「あの冷ややかなガラスの向こうにいるあなたに、俺は俺の理想をうつして眺めていたと、そう言いたいのか……」


 アンリが指の腹でタイラーの指と指の間を撫でる。タイラーが手をひらくと、ぎゅっと絡めてきた。

 二人指を絡め手を握り合わせた。


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