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「要するに、ソニアがその……、姫ということだろ」

 皿を洗い終え、タイラーは手についた水滴を払う。


「青い髪の子は姫。島では、人魚姫と呼ぶのよ」

「姫というからにはその髪色の男はいないのか」

「いないわ」

 ソニアはローテーブルを拭く。

「『とる』は嫁ぐという意味合いよ」


「人魚姫が嫁ぐ、ねえ……。泡になるというのは、嫁ぐをあらわす伝承かなにかか……」

「嫁に出したくないなら海へ近づかせない……島の習わしね」


 んっとタイラーはひっかかる。

「ソニア、詳しいね……」

「そうかしら」

 首をかしげ笑む彼女に艶っぽさを感じ、ぞくっとする。

 

「片付いたし、部屋へ戻るか」

 今夜は二人きり。老女が二部屋を提示しなかったのは、並ぶ男女の仲を見たままに解釈したからであり、彼女もまた当たり前のようにそれを受け入れている。タイラーは断られてはいないと解釈していた。


 ソニアが立ち上がり、シンクへ立つ。蛇口をひねり水を出す。ふきんを洗い、絞り、たたむ。女性の指先は細く、丁寧な所作はたおやかで、男のごつごつした手にはない繊細さがあり、なまめかしい。


「ねえ……。夜の海辺へ散歩に行かない」

 彼女がほほ笑む。目線のやりどころにタイラーは困る。

「外はきっと星がきれいよ。できたら、洞窟まで行きたいわ。月明かりに照らされても、あそこはきっと幻想的よね」


 感情を読み取りにくい青い瞳が誘う。

「夜の散歩かあ……」

「ねえ、良いでしょ」

「そうだな……、行こうか」


 休む老女に出かけてくると伝えると、玄関のカギを渡された。ポケットにつっこみ、宿から出ると、あたりはすっかり夜になっていた。海辺の街が明々と灯をともす。港の光が明滅し、夜の漁を彷彿とさせる賑わいをみせる。

 空が緞帳どんちょうをおろせば、海は黒ずむ。月と星はスパンコールのように瞬き光る。月明かりが波と遊ぶ。波音が耳朶を叩くも、ほどなく慣れて無音へと還る。


「夜景もきれいだなあ」

「本当に……、あなたと一緒じゃないとこの景色も見れなかったわ」


 ソニアが歩き始め、タイラーは数歩遅れて追う。


「一人の夜は怖い」

「それは……海に嫁がないといけないからか」

「伝承通り、私が海の泡になると……思う?」


 タイラーは空を見上げて唸った。

「人間がどうやって泡になるんだ。もし海に出て君が泡になるなら、船にのってこちらまでは来れないし、この砂浜も安心しては歩けないだろう」

 

 ソニアがふわりと舞うように身を返す。突如正面を向いた彼女にタイラーはたじろいだ。スカートがひらめいて、後ろに手を組み、覗き込むように笑いかける。

「そうね。あなたと一緒だから、ここにもこれたし、こうやって安心して歩けるわ」

 言い終わらぬうちに軽やかに旋回し前を向く。歩き始めると、色味が薄らいだ長い髪が風に流れ、いつもの癖でなびいた髪を耳にかける。

 細い指先、髪をかけて露になる耳すべて、畏れながら触れたくなる。


 海風に揺れる裾を抑えながら歩む彼女は白いワンピースを着ている。駅に迎えに来てくれた時、着ていたものと同じ服だ。仄暗い世界に色彩は失われスカイブルーの髪色も目立たなくなり、ひらめく姿だけ海辺に白く浮き上がる。背格好が似ているからアンリと見まごう。

 彼女の横顔が海へ向く。月明かりが照らす白い肌、長いまつげ、柔らかそうな唇。二十歳そこそこのあどけなさを残す。

 なびく髪を耳にかける小さな所作に見ほれてしまう。


 海辺の洞窟へと通じる海岸沿いを、追いかけるように歩き続ける。横に立てば、目的地へ着く前に抱きしめたくなりそうだった。


「今が、リバイアサンが目撃できる季節なのよ。散歩してたら、見れるかもしれないわね」

「こんな人里近くまでくるものなのか」

「くるわ」

「大きな海洋生物には、この入江は狭いだろうに……」


 暗い海に突如現れる竜を思い描く。

「月明かりに照らされて、煌々と光る両眼に睨みつけられたら、足がすくみそうだよ」

 両腕で身を抱え、震えてみせると、ふふっとソニアが笑う。


「思うより、穏やかな目をしているそうよ。

 きっと、そうね……慈愛深い馬の瞳を思い出すわ」

 声音はまるで見たことがあるようなイントネーションを踏む。


「ソニアはその瞳を見たことがあるのかい」

 問いは波音に紛れたようで返答はなかった。


 砂地を進む軽やかな足取りは躍るようだ。ふわふわとソニアは歩む。彼女の踏みしめた小さな歩幅の足跡を重ね踏みして、タイラーは一定の距離を保つ。

 この涼やかな空気を味わいながら彼女を背後から抱きしめたい。衝動を誤魔化すように踏み遊んでいた。


「竜を食べる地域はあるけど、ここは食べないのよ。海からも山からも恵みがあるからね。魚も豊富で、鳥も果樹もとれて、食べる物に事欠かない。リバイアサンのような大きな生物を狩るリスクを冒す必要がなかったんだわ」


 リバイアサンを語るソニアの口調が、アンリと重なる。タイラーは惑い、めまいを覚える。


「リバイアサンの食性も私たちは分かっているようでわかっていなかった。ここにくる種は、海藻やプランクトンを主たる食物にしていたの。食べても小魚程度よ。

 人間ほど大きな生物は口にしないわ。そのあたりはサメなどとは違うのよね」


 食性などよく難しいことを知っていると感心するより、わきあがる既視感におののく。


「大人しい竜種なの。狩りつくす人間に絶滅させられなかったのは、深海や沖という生息地に守られた結果と言えそうなのよ」


 リバイアサンの目撃地であると、シーザーも解説していた。文献が別荘にあり、彼女が読んでいたという結論へと導くこともできる。詳しくても不思議はないはずだと喉に詰まった石を押し込むように、タイラーは飲み下す。


「……詳しいね」

「本で読んだ受け売りよ」


 流れるように語られるリバイアサンの背景。知る人なら当たり前のことを語っているのに、タイラーの跳ねた心音は高まるばかりだった。


「アンリ……」

 呟きは波にかき消えるも、雷が落ちるように閃いたインスピレーションに震撼する。姿が似ているというだけで、なにを勘違いしていると自身を叱責し、内心はそんなわけがあるものかともみ消しに躍起になってしまう。


 ソニアの髪色が夜に紛れて目立たなくなり、幻覚を現実に顕在化させようと仕向ける魔法がかけられそうだった。


「どうして、リバイアサンを食べると不死になるなんて伝承が残っていると思う。どこの誰が、そんなまやかしを残すと思う」

 蠱惑的な声音に身震いする。

「不死なんて幻想を求めるのは、結局は時の権力者であると思わない。資産家のシーザーが貴族の末裔と接触し、そのような伝承を得て、妹のためと真意を知りたがっても、止めようはないわ」


 口内が渇く。彼女は使用人だ。しかし、あの兄妹に好かれている。プライベートな事情を知っていてもおかしくはない。

「ソニア、君は……、いったい、なにをしゃべっているんだ」


 海辺の洞窟へと到着した。

 天井の風穴から月明かりが降りそそぐ。水面で踊った柔和な光が、昼よりも黄みがかった青を空間に放ち、青く染まった空気は昼よりも透明度が高く感じられた。


 ソニアはかかとに手を添え靴を脱ぐ。両足を素足とし、ちゃぷんちゃんぷんと柔らかく寄せてうねる波際へと近づく。素足に波が寄せて、足首までつかり、戻り、立ち止まった。

 タイラーは彼女の背後に立つ。届いた海水がつま先を濡らした。


 気配を察した彼女が胸元へ寄りかかってくる。肩を抱きとめ背後から抱きしめた。海を見つめるソニアの頭部にタイラーは頬を寄せる。やっと抱けたと安堵し、深く深く彼女の香りを胸に吸い込んだ。

 ここにいるのは、ソニアだ。タイラーは自身に強く言い聞かせ、目を閉じた。


「愛しているって言ってほしくて……」

「……愛してる」

 ささやく彼女の腕をさする。


「好きだって言われて……」

「好きだよ」

 何度でもと言うなら、望むまま……。


「……甘やかされたいの」

 背後から強く抱いた。彼女の肩がすくむように浮く。肩と首のわずかな隙間に頬を寄せる。

「大事にしてほしい」

 ソニアの手がタイラーの腕を撫でる。細い指先から電流が伝わり、触れてと語りかけてくる。


「私、そんなにしっかりしていないの」

「そうだね、電球も伝言も忘れてたよね」

 彼女の頭部が倒れてきてタイラーの肩に乗る。


「タイラーがいいの」

 彼女が背伸びをして、身を動かし、口元が頬と耳へ近づく。

「あなたがいい……」

 ささやく声が甘ったるい。


 彼女が身をよじった。タイラーの腕がその勢いに押されて浮く。

 目が開くと、長い髪が薙いで、上目使いで恥じらう瞳にとらえられた。色味のない世界に幻惑の魔法がかかけられる。吐息がかかりそうな距離に惑わされた。


「……アンリ」


 直後、自ら発したつぶやきにタイラーは硬直した。


お読みいただきありがとうございます。

心より、ブクマと評価ありがとうございます。

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