25,
キッチンと食堂が併設された一室にて、交際を申込み、了承を得たタイラーがソニアを抱擁する。その場面に、別荘の持ち主であり、ソニアの雇い主たるシーザーが突如現れた。黒い髪、濃い紫の瞳。その姿を観止めた瞬間、タイラーの頭のなかは真っ白になる。
横に座るソニアがすっと立ち上がった。
「タイラーは悪くないわ」
衝撃のあまり初動が遅れた。幼いソニアに守られ愕然とするタイラーは意を決し、がばっと立ち上がった。全身から汗が噴き出し、濡れネズミと化す気分だ。
衝動で立ったものの目算はない。算段が脳内で打たれ、言い訳が斜め読みする小説の一ページほど流れていった。無駄だと叫ぶ声が心底から脳天に突き上げる。この場で言い訳をするほど、泥を塗り、信頼を壊し、立場を悪くするものはない。
喉が締められるような錯覚。呼吸が苦しい。
シーザーはソニアの雇い主だ。かつ、彼女を保護した男なのだ。だとしたら、彼の立ち位置は、ある意味、父親のようなものととらえられないかと、息も絶え絶えにタイラーは思い至る。
「ご容赦ください!」
タイラーは陳謝とともに、体を直角に曲げるほどの最敬礼を示す。
横に立つソニアが、心配そうにタイラーの腕をさする。
タイラーにシーザーの姿は見えない。
シーザーは頭をかいていた。「僕に謝られてもね……」と呟いていたものの、タイラーの耳には届かなかった。
「シーザー。タイラーは悪くないの。分かるでしょ、彼はちゃんとした人よ」
普段は旦那様と呼ぶソニアが、シーザーを呼び捨てにした。タイラーはさらに混乱する。彼女とシーザーの関係は、雇い主と使用人で本当に間違いないのか。疑念がわく。目を見開き、顔をもあげれず、最敬礼の姿勢のまま、凍り付いた。
シーザーが冷ややかに言い放った。
「彼女は僕の情婦だ。そうは考えなかったのかな、タイラー」
ざざっとタイラーは青ざめる。ソニアについて、シーザーとの関係を疑うほど思考はまわっていなかった。街の喧騒から離れた別荘地だ。女の子一人雇う役割が、妹のお世話一つとは限らない。むしろ、人知れず女を囲いやすい立地であると考えられる。
タイラーの血の気が恐ろしく引いていった。
「ちょっとシーザー、なにを言うのよ。それは違うでしょ」
間髪入れずにソニアが叫んだ。彼女らしかなる金切り声で、まるで悲鳴のようだった。
タイラーはちらりとソニアを盗み見る。目が吊り上がり、肩が戦慄いている。怒りに打ち震える姿に、ほっと胸をなでおろすとともに、心が打たれた。
シーザーが、くくっと喉を鳴らす。
「タイラーの脳裏によぎったことを僕が口にしてみただけだよ。ソニア」
「それにしてはひどい嘘だわ。言っていいこととダメなことの区別もつかないの」
ソニアの剣幕に、タイラーも面食らう。最敬礼の姿勢を崩し、すっと頭をあげて、シーザーを見つめた。
シーザーは笑いをこらえていた。
はめられたのかと、タイラーはショックを受けつつも安堵した。
「ごめんね。僕が違うと否定しも、タイラーはきっと半信半疑だよ。ソニアが全面的に否定してくれないとね」
「それにしても、やり口が回りくどいわ」
とても雇い主に対する言葉遣いに聞こえず、タイラーは目を見張った。
じとっとソニアが、タイラーをも睨みつける。
「なによ。タイラーも、私のことをバカにしてるの」
「まっ、まさか。そんなことはないさ。脳裏をよぎっただけで、君を疑ったわけでは、ない……よ」
これでは、しどろもどろになるほどに、疑ってましたと白状するようなものだ。
「男って、どうしてこう短絡的なの」
二十歳程の少女に、男二人謝るやら、弁明するやらで、ふてくされる少女に困惑し、収拾がつかなくなりそうだった。言い訳ほど後々面倒だと改めて自覚しつつ、タイラーは一生懸命ソニアのご機嫌を取り続ける。
その様を、手にした果実を回しながら、シーザーは楽しんでいた。
「……あのね……」
シーザーは、改めてソニアに視線を送る。
「ソニアが嫌じゃないなら……、僕は、あなたの恋路を邪魔する権利まではないんだよ」
「私は、タイラーが好きよ」
苦笑いを浮かべるシーザーに、ソニアがまっすぐに受け答える。その返答に照れたタイラーは口元へ手を寄せ、天井を仰いだ。
「タイラー。僕は使用人の自由恋愛まで、規制する気はないんだよ。ソニアがタイラーを選ぶと言うなら、そこに僕がなにかを言う権利はないんだ。
そう……。ソニアが、そうだな、望んでいないことをされたと訴えるなら、話は違うけど……。そのような気配がないなら、僕が口をはさむことじゃないよね。二人とも大人だし、僕も大人だ。
そうだな、しいて言うなら……、場はわきまえてね。と、お願いするだけだよ」
困惑する表情でシーザーは笑みを浮かべた。
翌日、タイラーとソニアは人魚島に向かうため、波をかき分け進む定期船に乗っていた。
晴天の青と海の青がかち合う水平線まで、海はきれいな波模様を描き、波音が絶え間なく耳朶を打つ。空を見れば、海鳥が飛んでいた。時折ゆりかごのように揺れる波へおりて水面に浮遊している。
海風を浴びながら、揺れる船でくつろぐタイラーは、自身を海鳥を重ね合わせて楽しんでいた。生き物ほど、見ていて飽きない物はない。
海の明度も高く、水面近くを泳ぐ大きな魚の背が見えた。
水しぶきが空間にただよい、甲板に立つ二人に水滴を振りまく。日差しの暑さを緩和するたわわな水滴を含む空気が気持ちよい。
この海がアンリを飲み込んだのだと思えば、言い知れない気持ちがわくも、ソニアが隣にいてくれることが救いとなって、慰められた。
見つめていた視線に気づかれ「どうしたの」と、ソニアが問う。昨日の一件が、脳裏をよぎった。
「しかし、昨日はシーザーに見つかって寿命が縮むかと思ったよ」
「私も慌てたわ。どんなに早くても昨日の夜だと思っていてもの。まさかお昼に来るなんて……、シーザーもひどいわよね」
「俺は、ソニアが呼び捨てにしていることに驚いたよ」
肝を冷やした記憶に、今も身震いする。
「あの兄妹よ。ありえるでしょ。あなたも、私も、あの二人に気に入られているのよ」
「まったく、なぜだろうね」
「どうしてでしょうね」
「俺は、あなたとの仲が、公認になったようでうれしいですけどね」
ソニアの腰に手を回そうとして、叩かれた。
「シーザーも言っていたでしょ。場はわきまえなさい、と!」
「はい……、そうですね」
しゅんと手を引いて、ジンジンする手の甲を見つめる。いくつの女相手でも、尻に敷かれるものなんだなと、タイラーは思い知った。
しだいに近づく人魚島にちらほらと小さな民家が見え始める。戸数は数えるほどであり、各家が点在している。小さな港があり、漁船も何隻か泊められていた。
「ねえ、タイラー。
あの海に一番近いお家が、おばさんが言っていた宿ではないかしら」
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