20,
野菜を煮詰めたスープを、おたまを返しながら具を避けて、液体のみマグカップに注ぎ入れる。スプーンとフォークを添えた、果物をのせた小皿も用意した。
「ロビンに渡してくるわ」
ソニアは、朝ご飯をのせたおぼんを手にして、早足でキッチンを出ていった。
残されたタイラーは、シンクに視線を落とす。洗い残されたまな板やナイフ、調理器具がある。スポンジや洗剤は目立たないように備えられていた。
肘をあげて、袖をまくる。
蛇口をひねり水をだし、濡らしたスポンジに洗剤を数滴垂らして洗い始めた。
好かれたいのに、余計なことをして嫌がられることもある。タイラーは手を動かしながら、言い訳も同時に考えた。無言で手伝って、易々と感謝がもらえるほど女の子は簡単じゃない。善意や悪気の有無は無関係だ。自己都合が判定基準で、してあげたことを素直に喜んでくれないと傷つく男心は無視される。
意外と『ごめんなさい』が効くんだよな。そう思うと、自然と口角が上がる。
アンリと長くいた経験則から、弱さも使いようだと思い至る。言い訳を並べるより、謝る方が早い。弱さを見せると『仕方ないわね』と許してもらえる。怒りすぎを自覚し沈静化すれば罪悪感から開く扉もある。
許された後のおまけが目当てだと、本心は言わない。許すと甘えがリンクしている。許されたあとで、もう一度『ごめん』とささやき抱きしめて、好きだと続けて、キスして……。
普通に『ありがとう』と言われてもうれしいが、『ごめんなさい』というお菓子についてくるおまけが意外といい。なにが出てくるかわからない面も魅力ある。
ソニアに喜ばれても、怒られても、嫌がられても、困られても、『ごめんね』と続けて、ポロリとなにかが零れ落ちてくることを望む遊び心を持てば、待ち時間も有意義にタイラーは感じた。
ソニアが戻ってきた。
キッチンに立っているタイラーを見て、駆け寄ってくる。シンク前に立ち、両手を台に添えて、身を乗り出した。アイランド型なので、ちょうどタイラーの目の前にソニアが身を乗り出す姿になる。
「そんなことしなくてよかったのに」
開口一番、叫んだ。慌てるソニアに、タイラーはふっと吹き出す。怒りも困りもしないかったなと予想外の表情が、年相応の女の子らしい。
「お客様にそんなことさせられないのよ」
悲鳴のような慌てた声。お客様と言われるのが嫌だったことも忘れてしまう。
「ごめんよ。ただ待っているのもつらいんだ」
「お願い。私の仕事をとらないで」
ソニアが眉間にしわを寄せる。
「ただでさえ仕事しているのか、わからないの」
手もとの水滴を払う。ふきんの位置をソニアに指示され、手を拭いた。
「ちゃんとしているだろ。今だって、ロビンのために動いているんだから」
「それは心配だから動いちゃう面もあって、仕事している気にならないのよ」
「どうして」
「手のかかる妹のお世話をしている気分だから……。それなのに、旦那様はちゃんとお給料を払ってくださるのよ」
ほうとため息をつくソニアに、タイラーは苦笑する。
「ただ生活しているだけで、お給料をもらうのが忍びないの?」
ソニアが拳を口元に寄せる。上目遣いで、そっとタイラーを見つめて、頷いた。
「気にしなくてもいいことを気にするね」
「ただ拾ってもらって、仕事ももらって、安穏としているだけなのよ」
「ロビンの世話をしてくれるだけで、シーザーは十分なんだよ。彼がしたいけど、できないことを代わりにしているんだから」
シンクから離れ、回り込む。タイラーはソニアの前に立った。もう半歩進めば、彼女に触れるほどの距離で、キッチンに手を置き、体を支えて、余裕あるふりをした。
「仕事ってそういう一面もあるよ」
ソニアが、タイラーをまじまじと見上げる。彼女から見たら大人に見えるのだろうかとタイラーは不思議に思う。出会った頃のアンリを思わせるソニアはあどけない。三十路のタイラーからみたら、十八や二十歳そこそこの女の子は大差なく映る。アンリと一緒にいる時間が長く、十年以上女の子を口説いた経験がない。
本心は、手順を踏むことが面倒くさい。嫌がられたり、断られたくないくせに、戦利品だけが欲しい。女の子を傷つけることは怖くないくせに、その子の後ろにちらつく男に嫌悪されることが怖い。
彼女の背後にいる男を恐れ、踏み込めない半歩の溝が深い。
「ソニア。昨日、おぼえてる」
なにをとソニアのスカイブルーの瞳が語る。
「俺、君に、キスしたよね」
彼女の体がびくっと震えて、強張る様が見て取れた。
「どうして、なかったことにしてるの」
声が冷たい。発してしまった後で、恐れを抱かせてしまったかと悔やむ。
ソニアはタイラーを見つめて、拳を作り胸に寄せる。
瞬き一つする間に、ソニアは逃げだしそうだった。タイラーは逃がすまいと見据える。
「タイラーは、大人でしょ」
おびえるような震える声でソニアがつぶやく。
「俺が、怖い」
「……いないの。その、恋人とか……」
ソニアが視線を床に落とす。
相手が大人だから、からかわれたり、騙されたり、警戒するのは当然かとタイラーは瞬時に納得する。逃げられまいと踏みこんでいる体に、充満している緊張を意識し和らげる。獲物を狩るような体勢を取ったままでは、拒否される。その前に安心感がなければ、彼女はこちらを向いてはくれない。
「いない。三年前はいたけど、それきり、ずっと、一人だよ」
嘘はつかない。
「海難事故に巻き込まれて行方不明になった。ここに来たのも、彼女が最期に行った場所を訪ねるためだよ」
ソニアが目を見開く。顔を重たげにあげ、そらした視線を再びタイラーへと戻した。
「好きだったの?」
「もちろん。好きだったよ」
ソニアがほっと息つく。今は恋人がいないと知ったからか、彼女が放っていた緊張もほぐれるようだった。恋人や妻がいる、そんな可能性を心配していたのかもしれない。
「彼女のお母さんにも、もう忘れてほしいと言われている。待ち続けるのも、アンリのためにはならない。もう三年過ぎた。俺もそう思った」
「愛してた?」
「愛してたよ。結婚したかったぐらいに」
胸元から、鎖につながったリングを取り出して見せた。
「渡せなかったプロポーズリングだよ。これを、帰りの船で捨てて、最期の別れにするんだ」
リングがくるりと回転した。ソニアの口が、ごめんねと声なく動く。彼女の表情が和らいだ。
「前の恋人の話なんて嫌じゃないかい」
ソニアが首を横に振った。
「キスしていい」
問うと、ソニアがまっすぐに見つめ返してきて、タイラーもはにかむように笑った。
「シーザーの雇っている子だからさ。傷つけたくないんだ。嫌なら、しない」
「今の私は……、好き?」
「好きだよ。愛してる」
顔を近づけていくと、ソニアの手が伸びてきて、タイラーの衣服をつかんだ。
嫌がらないか確かめるためのキス一つ。
一歩踏み出して、逃げられないように腰に手を回して、二つ目のキス。
顔を少し離して、額に額をつける。少し目が開いて顎が上向いて、「少し口あけて」と呟き、彼女の唇がうっすら開きかけたところで、三つ目のカクテルキス。