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「明日から出張に行きます」
コーヒー店から出てくるなり、目の前に立ったアンリはごめんなさいと両手を合わせ拝むようなしぐさをする。タイラーはなにを謝ることがあるのだろうと、彼女の栗色の頭に手をのせた。
「でっ、準備かな」
「そうなの。だから……」合わせた手の少し傾け、タイラーを見つめてくる。「うちで準備したいの」
申し訳なさそうな声に、気にする必要ないのにと思いつつ「じゃあ、今日は君の家だね」とタイラーは答えた。
彼女の頭にのせた手は、撫でることなく引く。
ひるがえり、歩き始めるアンリと手を繋ぐことはまずない。いわゆる恋人のような馴れ馴れしさを外で出すようなことは、彼女が好まないとタイラーは長年の付き合いから感じ取っていた。
学生時代から物事に夢中に取り組むアンリ。興味ある事柄が優先順位の上位にくるものの、ツンツンし人を寄せ付けないかと言えばそうでもなく、愛想もほど良い。過剰にべたべたするのを苦手にしているだけで、人と笑い合うことは好きな女性だ。そんな彼女ゆえ、当時から、タイラーと違い、恋人の一人や二人はいたのだ。顔見知りの大学の先輩は一人知っており、その彼と別れたところに、たまたま同級生のタイラーがそばにいて、関係が進展したのが始まりだ。
友達の延長線上で付き合いが始まり、いわゆる、一緒にいて楽だからというポジションが昔から今も続いているのだとタイラーは認識している。
アンリが結婚まで考えていてくれるのかどうか。始まりから続く関係からしても、タイラーは自信をもてないでいた。
「今回の出張先はどこなの」
横に並んでタイラーは問うた。
「海辺の街にほど近い、小島。ってとこかしら」
口元に手を寄せ、考え込む。
「出張なのに、場所が決まってないのかい」
「おおよそは分かっているのよ。海辺の街であるとか、目的地とか……、ただ細かいことを言いにくくて……」
唸り、地面を見つめるアンリが今までに見せたことがない険しい表情を浮かべる。タイラーはしばらく黙って彼女の返答を待っていたものの、考え込む様子に変化がなかったため「夕飯はどうしようか」と話を変えた。
学生時代からアンリは勉強熱心で、興味を持つものへの情熱はまぶしいほどだった。タイラーからしてみたらどうしてそんなに一つのことに夢中でいられるのかと不思議でならないほどに。いつもなら興味あることを楽しそうに話すであろう彼女が言いよどんだのだ。今は聞かない方がいいかとタイラーは考えた。
食事の話をしているうちにアンリの家にたどり着いた。
アンリの部屋は殺風景だ。
台所とつながっている居間には、ソファーとローテーブル。他にオープンな棚があり、必要な物はそこに並べている。最低限の化粧道具と、仕事道具、日用品。ホテルよりはましで、日常生活をおくるにしては生活感が乏しい。
『実家に置いてきた物が多いのよ』とはにかんで言うものの、タイラーからしてみたら、女の子の家にしてはさっぱりしていないかと考える。比べる基準がないにしても。
「ごめんね。タイラーの家に行けなくて」
荷物を棚に置きながらアンリは謝罪する。
「今日行って、片づけようと思ってたんだけど……」
「いいよ。自分でもしないといけないとは思っているんだ」
タイラーの部屋は物が多く雑然としている。実家に荷物を置いておくことはかなわず、古い物を捨てるのも苦手であった。それだけでなく、そもそも物を床に置いてしまう癖がとれない。
『床に物を置かなくなれば、少しはましになるのにね』
そう告げるアンリが週に何度か部屋へ来て片づけてくれる。手際よく床の荷物を仕分けていく様を見て、彼女がいかに仕事の早い女性なのかと、いちいちタイラーは感じ入ってしまうのだった。
ある一面において、アンリはタイラーにとって理想の男性を思わせる部分があった。情報処理が早く、頭の回転も速い、夢中になって取り組める仕事を持ち、飛び回るように働く。平均的な仕事をしているタイラーからみたら、彼女の仕事ぶりはうらやましい部分があった。
夕食を作るため台所へ立つアンリに、先にシャワーでも浴びたらとすすめられたタイラーは、寝室のクローゼットの一角に置かせてもらっている部屋着を持って水回りへと移動する。
「脱いだ服はハンガーにかけておくのよ」
アンリにぴしゃりとくぎを刺された。
シャワーから戻ると、アンリも部屋着に着替えて台所に立っていた。
「今、ゆでてるから待ってて」
彼女の声を背に受けながら寝室へと戻ったタイラーは、脱いだ服をハンガーにかけ、クローゼットの扉に備えられたフックにかける。
服をしまい込んだクローゼットに本棚、ベッド。それしかない寝室。もちろん床に置かれた物はない。
「できたよ。こっちにこれる」
届いた声に、タイラーは「今、行く」と返した。
トマトソースのパスタを二皿に盛り、フォークを差して両手に持つアンリと鉢合わせた。
「座って、食べよか」
アンリがちらりとタイラーを見て、ほほ笑んだ。
ローテーブルに向かい合って座る。
アンリはフォークを器用に回し、小さめに絡めとったパスタを口へ運ぶ。髪が少し邪魔なようで、片手で耳にかけながら、首を少し曲げると、首筋がよく見えた。一口食むと、タイラーの目線に気づき、引き抜いたフォークをお皿に戻しつつ、咀嚼し飲み込んでから、「どうしたの。食べないの」と不思議そうに首をかしいだ。
見つめていたことを誤魔化すように、タイラーは「出張からはいつぐらいに戻るの」と切り出す。
アンリは、「そうねえ」とフォークを動かしながら、「二、三日の予定よ」と曖昧に答える。
日程が決まっていないほど、急な出張なのだろうかとタイラーは疑問に思う。アンリの仕事柄、そんな急なことがあるのだろうか。
「珍しいね」
タイラーがそう呟いたのは、自然なことだった。
「わかるわ。急に決まったの」
真顔になるアンリにタイラーは少し面食らう。フォークの手を止めてうつむいた彼女が、ひどく傷ついた表情をしているように感じた。
「水平線上で目撃されるのは珍しいことではないわ。陸地から目撃される地域は、ほんの影程度、望遠鏡などを通して見るのが一般的。
今まであまり話題にならなかったのは頻度が低かったからね。年に何回かだったかしら。なのに、そこでは港からしっかり姿が見えるらしいのよ。
海洋に出て目撃するととてつもなく大きいの。それがそのまま陸から見える。しかも近くの小島にはどうも目撃だけでなく、接触をにおわせる伝承もあるのよ。
こんな身近に見れたり触れたりするような機会があるなんて珍しいことよ。行ってみる価値はあるわ」
黙って聞いていたタイラーが苦笑する。毎度、アンリの熱弁は流れるようだ。
「今でこそ、私たち人間は、竜種と共生する方向で進んでいるけど。ほんの百年程前までは、命を削り合っていたもの。今、この時代に産まれてこれて本当に良かったわ」
アンリの仕事は、研究者だ。研究対象は、竜種の中でも、珍しい海の竜。リバイアサンなのである。