07. 隠したい古傷、暴かれる恐怖 (気持ち悪い、怖いっ……!)
※シリアス回
(十歩後ろが、最良位置)
だって不用意に近づくのは怖いから。
ひと気のない廊下でサイードが立ち止まれば、エリエノールも立ち止まって十歩後ろの距離を保つ。
「……君」
「はい」
こちらを振り返ったサイードの顔はひどく険しかった。先程教室にいたときのきらきらしい笑顔とは大違いだ。こんなにも人は時と場合によって表情を変えられるのかと、そんなことに感心する。
(何か機嫌を損ねるようなことをしてしまったかしら?)
ここまでは、ちゃんと大人しく付いてきたつもりだった。
「何故僕から目を逸らす? 何故僕を避けるのだ?」
「……はい?」
彼が何を言っているのか、さっぱりだった。
(心当たりはあるけど、それが何?)
たしかに目が合った気がしたときは慌てて逸らしたし、避けるつもりであったがそれが何か問題だっただろうか。これは別に不敬行為にあたるのではないはずなのだが。
サイードが何故か一歩こちらに近づいてきたので、一歩後ろに下がった。もう一歩近づいてきたので、もう一歩下がる。
(何してんだ)
するとサイードが、心底理解できないという顔をした。
「……なあ」
「はい」
「何故僕からそう離れるのだ」
「近づきたくないからです」
「なっ……!」
エリエノールの答えに、サイードが絶句する。
(しまった)
ぱっと口を押さえたが、時すでに遅し。さっと顔から血の気がひく。
(なんで言っちゃったんだろう)
近づきたくないのは本心だ。男の人は怖いし緊張するし、万が一にもサイードに恋をしてしまったら困るから近づきたくない。でも言うつもりなんてなかった。
(完全に口滑らせちゃった。緊張のせい? どうしよう。まずいよね。どうしよう)
思わぬ失態に冷や汗をかく。
しばらく黙ってわなわなと震えていたサイードは、何を思ったか突然ずんずんとエリエノールに近づいてきた。
(何!? 何!?)
必死に離れようとしたのだが廊下の端の壁際に追い込まれ、両側の壁にサイードが腕を突いたため逃げられなくなってしまった。
明るいオレンジ色の瞳が暗い影を帯び、不機嫌そうにこちらを見下ろす。心臓がとても速く脈打っていた。もちろんときめきからではなく、恐怖と緊張から。
彼に詰め寄られて、恐怖と緊張の度合いは一気に跳ね上がっている。
「近づきたくない」と言ったのは悪かったかもしれないが、その意趣返しにしてもこんなに距離を詰めてくる必要はないだろう。
下手に動くとサイードに触れてしまいそうな距離で、しかも彼は怒っていそうだ。
(怒ってる男の人、怖い。一触即発……)
怖くてただただ、壁際で脚を震わせた。
「……僕のことが嫌いか?」
「そんなことありません」
嫌いではないが、全く好きでもない。強いて言うなら苦手で、好きにならないように警戒もしている。
サイードに恋をしてしまって、失恋したらエリエノールが辛い。叶ってしまったらレティシアが苦しい。そうなるのは嫌だから、サイードのことを恋愛対象として好きになる気はない。
「では、僕が何か悪いことをしたか?」
「いいえ」
男の人が怖くて緊張して、恋をしたくないだけだ。ゆえに離れて欲しいと心から願っているが、残念ながらその願いはサイードには届かない。尋問は続く。
「それなら、男が怖いのか?」
「はい」
男の人が怖いのは紛れもない事実だ。エリエノールが頷いて肯定するとサイードはほんの一瞬だけ表情を和らげ、また不機嫌そうな顔に戻った。そして数秒黙った後、妙に悲痛な感じの声で尋ねた。
「……侯爵のせいか?」
「え?」
(何故にここで侯爵様?)
侯爵も当然男性ではあるが、別に侯爵が何か原因にはっているわけではない。養女だから書面上は養父だが、家族らしい関わりすらほとんどないに等しい。
エリエノールが理解できていない間にサイードは、おもむろにその顔の方に手を伸ばしてきた。それもいつも長い前髪で隠している、傷のある左の方に。醜い傷痕なんて見られてはたまらない。
(嫌だ)
反射的にその手を払い退けようとしたが、エリエノールの手は逆に払い退けようとしていたサイードの手に掴まれた。細い手首をがっしりと掴まれている。
「答えろ」
低い声でそう言われ、体はいっそう強張った。睨みつけられているようで、いっそう怖い。
(何なのこの人? なぜ突然こんな不機嫌になったの?)
呼び出しの理由も、こんなふうに壁際に追い詰められているのが何故かも、エリエノールには分からない。理解できない。
(男の人は、やっぱり怖い)
震える声で答えた。
「……侯爵様は、関係、ありません」
「なら、君がそんなふうに痩せ細って顔を隠すようになったのは何故だ? 僕は侯爵が虐待でもしていたのかと思ったのだが」
痩せたのも顔に傷ができて隠すようになったのも、原因は侯爵ではなく義姉のヘレナとネルだ。侯爵は、ただ黙って放置していただけだった。
サイードは誤解しているようだったが、話したくなかった。変に同情されるのも嫌だし、これ以上関わりたくない。
「殿下には関係ありませんから。もう、離れてくださいませ」
サイードに掴まれていた手を振り解こうとする。思いの外あっさりと彼はエリエノールの手を離した。
(これで、離れられる……?)
しかし、安心したのも束の間のこと。サイードはエリエノールが油断している隙を見て左頬に触れてきたのだ。醜い傷のある、隠している場所に。
(触られたくない! 気持ち悪い、怖いっ……! 嫌だっ!)
負の感情が一斉に心に押し寄せてきた。全身に鳥肌が立つ。サイードの手首を掴んで、その手を自分から離させようとした。
(本当に、傷痕に触られるなんて嫌なの)
惨めな過去を知られずに、普通に新しい生活を送りたい。憐れまれるのは、嫌。
「殿下、おやめください」
「……」
「殿下!」
手に精一杯力を入れてどうにかサイードの手を引き剥がそうとしたが、びくともしなかった。
頑張って下へと引っ張って離れさせようとしているのに、それどころかサイードの手が傷痕の上を撫でていく動きすら止められない。
(嫌だ……触らないで……)
傷痕の上にある感触にぞっとし、体格や力の差を実感した。こんな醜い傷、あると知られるのも触られるのも嫌で、やめて欲しいのに。
手のひらでしっかりと頬を包まれた。
(嫌だ)
眉間に皺を寄せたのは、こうでもしないと今にも泣きそうだったから。
(どうして、惨めな過去にずけずけ入ってこようとするの?)
嫌で嫌で仕方がない。傷痕に触ったりなんてしないで放っておいて欲しい。泣くのを堪えながら、やめて欲しいと伝えたくてどうにか声を搾り出した。
「殿下……!」
「この傷は、誰にやられたんだ?」
サイードは、触った感触で頬に傷痕があることを確信してしまったらしい。凹凸のある傷痕なので触れれば分かるのは当然だ。
(でも、話したくないんだもん)
自分が傷つけられた過去の話なんて、楽しくない。黙って唇を噛んだ。話そうとしなければ諦めてくれるのではないかと期待したのだが、そうはいかなかった。
(あっ……!)
無情にも、サイードはエリエノールの前髪を手でかき上げたのだ。醜い傷痕はサイードの目にはっきりと晒される状態になってしまった。
肉が抉られて皮膚を裂かれた頬の傷痕が、尊いオレンジ色の瞳に触れる。