番外編1 小話【サイードの落書き】
◇◇◇のあと→エリエノール視点
◆◆◆のあと→サイード視点
――これは、サイードがエリエノールにくだらないちょっかいをかけて遊んでいた、四月下旬頃からの話である。
◇◇◇
(……あっ)
魔法史の授業中。右隣から伸びてきた手が、スッとエリエノールの教科書を奪った。エリエノールの隣の席に座るのは、この国で最も尊き同年代の男の子、サイード・リュウールシエル王太子である。
引きこもり生活の長かったエリエノールにとって、彼はかなり怖い存在だ。背が高くて声が低くて威圧感があり、授業中に変なことばかりしている人。
サイードはエリエノールの教科書にペンで何かを書くと、何事もなかったかのようにそれを返してきた。
見ると、とある魔導師の肖像画のほっぺたにグルグル模様が描いてある。立派な功績を残した人なのに、これではお間抜けさんに見えてしまう。
(なんで、こんなことするんだろう)
落書きしたいなら、自分の教科書にすればいいのに。もしかして、他の人の教科書を汚すから楽しいのだろうか。
義姉に体を傷つけられたり服や私物を汚されたりした経験はあるが、自分が他人にそのようなことをした経験のないエリエノールには、サイードの気持ちはよく分からない。
サイードの手が、今度はエリエノール本人の方に伸びてきている気がする。何をされるのかと身構えていると、何故か髪を一房掴まれた。手はするりとそのまま滑り落ち、彼はおとなしく真面目っぽく授業を受けはじめる。
(まったく、なんなんだ)
◆◆◆
姫の弱みを握りたい。だから彼女のことを探っている。『僕のことが嫌いか?』と書いた紙を彼女の机へと投げ、返事を待つ。今日も彼女の答えは、『嫌いではありませんが、好きでもありません』だ。
まったく素気ない返事だ。どうしてくれよう。
彼女の肩へと手を伸ばす。とん、と触れると、彼女がちらりとこちらを見た。何にも言わずに彼女を見つめていると、彼女はまた黒板のほうを向いてしまう。
(……どんな反応をするんだろうな)
彼女の耳に、そっと指先で触れる。なんとなく他の場所より、いやらしい感じのするところ。彼女の肩が小さく跳ねる。指先を滑らせて耳朶をつまむと、さらに大きく肩が跳ねた。
「……ん」
小さな小さな声が彼女から漏れる。きっとサイードにしか聞こえていない。恥ずかしいのか、彼女の耳が赤みを帯びはじめた。また耳朶を撫でると、いよいよ鋭い目つきで睨みつけられた。瞳がちょっと潤んでいて扇情的だ。
(……可愛い)
思わず頬を緩めてしまったのに気づいてから、慌てて彼女の耳から手を離す。今、自分は彼女のことを可愛いと思ったのか。なんてことだ。
『授業中に変なことするの、やめてください』
暗い青色で綴られた繊細な文字が、サイードを非難する。自分の書いた言葉に返事がないと不機嫌になるくせに、彼女からの言葉をサイードは無視した。
『ばーか』
しばらくしてから、そう彼女の教科書の端っこに落書きする。先生の話を真面目に聞いていた彼女はまだ気づかない。
(僕も、真面目に授業を受ければいいんだろうな)
◇◇◇
サイードはよくエリエノールの教科書に落書きをする。文字を書くこともあれば、謎の絵を描いてくるときもある。
今日描かれた絵らしきものは、なんだかよくわからない代物だった。
(……これは、何ぞ)
たぶん、果物ではない。人間でもない。植物も違う気がする。動物かもしれない。エリエノールは首をひねる。
たぶん、左側にある歪な円が、何かの動物の頭なのだろう。足は四本あって、耳や尻尾も生えている……のだと思う。
(あれかな? 珍しい魔物とかかな?)
エリエノールが今まで本でも見たことのないような、かなりマニアックなものなのかもしれない。誰かに聞いてみたら、何なのかわかるだろうか。
(このクラスで一番頭が良いのは、たぶん殿下……だけど、さすがに本人に聞けないよね。うーん……)
エリエノールには友人がほぼいないので、聞ける人がなかなか思い当たらなかった。
クラスで一番仲が良いのはミクだが、彼女はそんなに頭は良くない。異世界から来たからというのもあると思うが、この世界の事柄についての知識はそんなに持っていないのだ。
(ジャン様……も、わかんなそう。でも、古代魔術の子たちに聞いてみるのはいいかも)
普段ならサイードの落書きなんかをこんなに気にしたりはしないが、今日のはあまりにも奇妙だったので興味が湧いた。
エリエノールは謎の落書きの正体を知るべく、古代魔術のメンバーに尋ねてみることにした。
◇◇◇
「皆さま、少しお聞きしたいことがあるのですが」
エリエノールは古代魔術の授業で一緒のみんなに、サイードが描いた絵を見せてみた。これは何に見えるかと、みんなに問うてみる。
「うーん。犬か、猫かってところか?」
「馬じゃないかしら?」
「まあ何にせよ、あまり絵がうまくないってことは確かだな。誰が描いたんだ?」
ジャンからの問いに、エリエノールは口ごもる。『あまり絵がうまくない』と言われたあとに、これを描いた人が誰かを明かすのは、なんとなく申し訳ない感じがした。
しかし、こんなに何度も描いてくるのなら、サイードは自分の絵に自信があったりするのではなかろうか。明かしたとしても、それが悪いことだとは言えないかもしれない。
彼はいつもいつもエリエノールの教科書に落書きをしてくるのだ。芸術について人が思うことはそれぞれだが、サイードがエリエノールには平然とこの絵を見せられるというのは事実だ。よし、バラしてしまおう。
「……えと、王太子殿下、です」
エリエノールが小さな声で答えると、ジャンが吹き出して笑った。そんなジャンの脇腹を、ユーゴが肘で小突く。
「お前、笑うなって。……不敬だぞ」
「いや、だってさ。いやぁ……完璧な人間っていないもんなんだな」
「ジャン。言わせてもらうけど、貴方だってそんなに絵はうまくないと思うわ」
「エレーヌも酷えな。俺はこれよりはマシだと思うぜ?」
「まあ……そうかもしれないけれど」
どうやら古代魔術メンバーのみんなにとっても、サイードの絵はよく分からないものだったらしい。エリエノールは教科書をパラパラとめくって、サイードがした数々の落書きを眺めていく。
「……何故、落書きをするのでしょう」
エリエノールはぽつりと呟く。「俺は、なんとなくわかる気がするよ」とジャンが言う。
詳しく聞こうと思ったところで、授業の開始を告げる鈴が鳴った。まあいいか、とエリエノールはサイードの落書きについて考えることをやめにする。
古代魔術の授業が楽しくて、授業が終わる頃にはサイードの落書きのことなんて本当にどうでもいいと思うようになっていた。
◆◆◆
五月にあった合宿のあとから、姫と関わる機会がぐんと減った。彼女のことを思えば、それは仕方のないことだと思う。
姫が中間考査のあたりからジャンという男と一緒にいることが多いのは腹立たしいが、サイードがとやかく言えることでもない。最近の放課後は追加授業にダンスの練習にと、また彼女は忙しそうである。
今日の放課後。談話室で、ジャンが姫が見当たらないと探していた。またダンスの練習をする予定があったらしかった。姫は追加授業を受けたあとにジャンと練習をするから、もしかしたらまだどこかの教室にいるのかもしれない。
隣の席で前に見た、彼女の予定表を思い出す。サイードは姫を探しているジャンは手伝わずに、姫のことをひとりで探しに行った。そして、見つけた。
(まったく、何をしているんだ)
心の内のその言葉が、サイード自身に掛けられたものなのか、姫に掛けたものなのか。サイードはよく分からなかった。
姫はとある講義室の席に座って、机に顔をくっつけて眠っていた。すよすよと寝息が聞こえる。彼女に近づいて、その目元に隈があることに気づく。何故か、頬には涙の跡があるのが見えた。
(何か嫌なことがあったのか? それとも、泣いてしまうほど疲れているのか?)
涙の跡に手を伸ばし、ゆっくりと撫でて消していく。小さくて柔らかくて、今にも壊れそうな儚い彼女。
(そんな華奢な体で、無理などするな)
分かっている。彼女に無理をさせているのは、〝神の血をひくお姫様〟とされた彼女に重い期待をかけているのは、我が王家であることは。
神に愛された子だと知られずに、隣国で暮らしているままだったら、彼女がこんなふうに外に出られることはなかった。けれど、彼女が望んでここに来たわけでもない。今が彼女にとって幸せかは、分からない。
彼女がまだ知らないことだけれども、いまのところ彼女の将来は、老齢の現国王の王妃になるか、次の王になるかの二択しかない。
どちらにせよ、彼女にかかる負担はこれからもっと増えていく。彼女がどんなに頑張って授業や課題をこなしても、時間の余裕ができれば、そこでまた別のことをやらされる。
(君が普通の女の子で、僕が普通の男だったら……どんなに、良かったことだろう)
サイードが普通の男になれることは、ない。王の子として生まれ、次期国王として育てられたからには、普通の人になることはできない。
彼女が王位を継ぐことになったとしても、サイードが国のことを何も気にせずに楽に生きられるようになるわけではない。
(君が普通の女の子になれるように……君は君らしく生きられるように。僕は、解決策を探さないといけない)
彼女の力を王家が利用しないことは、あり得ない。それでも、どうか彼女には幸せに生きてほしいと思う。父王の計画を変えられるのは、サイードだけだ。できるだけ、彼女が幸せになれる道を探したい。
(そのためには、余計な想いは捨てたほうが良いのだがな。やはり、難しい)
姫の教科書の端っこに、小さな絵と言葉をかいて、サイードは立ち去った。
◇◇◇
「エリエノール、大丈夫か?」
「……んぅ?」
エリエノールは目元をこすり、体を起こす。追加授業のあと、いつの間にか寝てしまっていたらしい。ジャンが心配そうに、エリエノールの顔を覗き込む。
「今日はダンスの練習やめとく? 疲れてそうだし」
「いいえ、やります。日を空けると、鈍る気がするので」
「そっか、分かった。あまり無理するなよ」
「はい、ありがとうございます」
エリエノールは机の上に広げっぱなしだったノートなどを、鞄のなかにしまっていく。教科書を閉じようとしたとき、端のほうに何かが書かれていることに気づいた。
線がガタガタとはしているが、この絵が何かは、たぶん見間違えていない。これは人の顔だ。髪らしき線を見るにおそらく女で、笑っている。
書かれていた言葉は、『おつかれさま、エリエノール』。そして、その下に少し震えたような小さな字で――『君とは他人でありたい』。
はっきり言って、下の言葉の意味はよく分からなかった。これを書いたはずの落書き好きな王子様は、エリエノールとは他人に決まっているからだ。
ただ、それでも。
(優しさの、気がする)
ここに宿る思いが優しさなのであろうことは、なんとなく読み取ることができた。エリエノールは今度の落書きはジャンにも誰にも見せないように、教科書を閉じて鞄の奥にしまいこむ。
「荷物、俺持つよ」
「ありがとうございます」
ジャンに鞄を持ってもらって、エリエノールは彼と一緒に廊下を歩いた。大談話室でレティシアと話しているサイードを見かけ、一瞬だけ目が合ったような気がした。でも、ただそれだけで。
(わたくしたちは、心配せずとも他人ですよ)
そう心のなかで呟いて、鞄を自室に持っていく。そして、ジャンと一緒にダンスの練習に向かう。
サイードの成人祭までは、あとほんの数日だ。
【サイードの落書き】 おわり




