27. 橙色の雫 「化け物になってしまったようで、すごく怖い」
医務室のベッドの薬っぽい匂いと、サイードの汗の匂いが混じるのを感じる。
唇に触れたものが何なのかを、頭が理解することを拒否していた。
サイードの右手がだらんとエリエノールの頭から離れ、ふたりの唇も透明な糸を引いて離れる。
サイードと、キスをしてしまった。
「殿下、何故……」
「本当に、ごめん」
消え入りそうな声の後、オレンジ色の瞳から雫が落ちた。一滴では止まらずに、ぽろぽろと落ちていく。
「……なんで、殿下が泣くんですか?」
勝手にキスをされて、正直エリエノールの方が泣きたい。恋人でもないサイードと、初めてのキスなんてしたくなかった。
「ごめん、ごめん……っ」
「殿下……?」
「違うんだ。本当に、僕がやろうとしたことじゃないんだ。……最近、体が自分の意思で動かせなくなることがあって。君が嫌がることはしたくないのに、抗おうとしても体が止まらない」
(ああ、そっか。そうだった)
キスのせいで気が動転していたが、そもそもサイードは最近何かおかしかったのだ。
彼の口から出た言葉で、やはり最近の接触は彼の意思ではなかったのだということを知る。ならばこの件で、サイードを責めることはできない。
胸にじわっと苦いものが広がるような思いがしたが、その思いが何なのかも、どうしてそんな思いをしたのかも分からなかった。
「ナイフを刺したのも、殿下のご意思ではないのですか?」
「いや、あれは僕の意思だ」
予想が外れて、「あれ?」と首を傾げる。
あんな暴挙はサイードの意思でないと思っていたのに――と考えていたところで、先程の言葉を思い出した。『君が嫌がることはしたくないのに、抗おうとしても体が止まらない』。
「ま……さか、止めようとして、あんなことを?」
「ああ。でも止まれなくて、ごめん。勝手に触って、人に誤解されるようなことをしてしまった上に、君の手に血をつけてしまった」
「血なんて、そんなことはどうでもいいんです。そんなことより……殿下があんなふうに傷を作ったのは、わたくしのせいなのですか? わたくしが嫌がることをしないために、あんなことをなさったのですか?」
エリエノールが男子寮に入った日に、勝手に触ることや人に誤解されるようなことは嫌だと言ったから、サイードはそんなことをしないようにとナイフを刺して自分を止めようとしたのだろうか。
エリエノールのせいでサイードは、その尊い大事な体に傷をつけたと言うのだろうか。
「エリエノールのせいじゃない。ただ僕が弱いから……抗えない、だけだろう。ごめんな、いつも君を傷つけてばかりで」
「服従の魔法、なんですか?」
闇属性魔法の気配はなかったのでおそらく違うのだろうと思いつつも、一応そう尋ねた。
「アベル曰く、闇属性じゃないらしい。だから服従の魔法ではない。何も、分からない」
やはりエリエノールの感覚通り、闇属性適性のアベルもあの魔法から闇属性は感じなかったようだ。
そうすると服従の魔法ではないようなのに、サイードは自分の意思を奪われているということになる。
人の尊厳を踏みにじるような悪質な魔法であれば禁呪の類だろうとは思うのだが、服従の魔法以外にこういう魔法は聞いたことがない。いったい何なのだろう。
「エリエノール。君には情けないところを見せてばかりだな。……また、駄目なところを見せてしまっても良いか? ひとりの人間の苦悩として、聞き流してくれるか?」
「……はい」
涙を流すサイードを見て、場違いにもとても綺麗だと思った。長い銀色の睫毛に透明な雫がついて、瞬きをするとキラリと落ちる。
風邪で弱っているからなのかもしれないが、サイードはエリエノールの前で「ひとりの人間」でいてくれるらしい。
「完璧な王子様」でない姿を見られることを喜ぶべきなのか、それともそれを演じられないほどに辛い思いをしている彼を哀れむべきなのか、どう思えば良いのかよく分からなかった。
「自分の意思で動けなくなると、自分が化け物になってしまったようで、すごく怖い。君を傷つけることになるのが、怖い。そして……レティシアとのことを、どうしたらいいのか分からない」
「レティシア様とのこと、ですか?」
「最近の噂に加え、僕がエリエノールに触っていることのせいで、なんか気まずくなって……レティシアとの接し方が、よく分からないんだ。喧嘩しているわけではないが、なんというか……仲直りの仕方が、分からない」
サイードとレティシアは仲睦まじい婚約者だった。
それはエリエノールがリュウールシエル王国に来る前からきっとそうで、エリエノールがいなければこんなふうにサイードが悩むこともなかったのだろう。
結局ミクの言った小説のように、ふたりの仲をエリエノールが裂いてしまいそうになっている。
「レティシア様は……殿下のことを、とても心配していらっしゃいました」
「ああ」
「レティシア様にも、このことを相談なされば良いのではないでしょうか。殿下がご自分の意思で動けなくなってしまうということを、お話ししてはいかがですか?」
「相談して……それで、どうする? レティシアに弱みを見せて、何の意味がある?」
棘を含んだその声に、怯みそうになる。きっと熱のせいで、良くも悪くも感情の制御がしにくくなっているのだろう。
けれども彼の悪感情に怯えて、この問題をこのまま放っておくわけにはいかない。できることはやらなければ。
嫌がられるだろうかと不安になりながらサイードの涙と汗を拭ったが、特に拒否されることはなかった。ただ気まずそうに、視線を逸らされただけだ。
「みんなで、解決策を探しませんか?」
「解決策?」
「はい。あくまでもわたくしの推測ですが……この件について、わたくしの考えを述べさせていただいてもよろしいですか?」
「……ああ」
サイードは、自分の意思で動けなくなることがある現状に苦しんでいる。
その原因が全く何も分からないと、きっとすごく不安だろう。たとえ推測に過ぎないことでも、言うことで少しは彼の不安を和らげられるのではないかと考えた。
「まず確認したいのですが、殿下がご自分の意思で動けなくなるとき、血のような匂いがしますよね?」
「ああ、そうだが。君も気づいていたのか?」
驚いたような様子のサイードに、こくりと頷く。
最近よく嗅ぐようになった血のような匂いは、必ず誰かが何かおかしな行動をする前に現れる。
最初はただの血の匂いかと思っていたが、何度も嗅いでいるうちに何かが違うと思うようになり、今日の匂いでほとんど確信した。
あれはただの血の匂いではなく、誰かの魔力の匂いなのだと。
「わたくしは魔力を封印されている身ですが、他人の魔力の匂いはどの属性でも嗅ぎ分けられます。わたくしが思うに……あの血のような匂いは、誰かの魔力の匂いです。魔法自体の属性は無属性ですね」
「誰かの魔力……?」
「はい。さらに言いますと、その人の属性適性は聖属性に近い気がします。よく知る聖属性とは少し違うようなのは気になりますが……。でも他の属性も強めで、たぶん適性判定だと全属性適性になる人だと思うんです。それで……あの匂い、わたくしの血と近いんです」
完全にエリエノールの感覚に頼っただけの曖昧な推測だが、自分のこの魔力を嗅ぎ分ける能力については自信がある。自分では魔法は使えないくせに、他人の魔力には敏感なのだ。
エリエノールは魔王に魔力を封印されているせいで、今この体に流れる血液にはエリエノールの魔力は流れていない。
王城での研究から魔王の封印魔法がエリエノールの心臓にかかっているということは特定されていて、その魔法は心臓で魔力を吸収しているか、あるいは魔力を消す成分を血とともにつくり出しているか――というところまでは考察されている。
つまり今のエリエノールの血液は、親から受け継がれる生き物としての血液の成分と、魔王の魔法の何かしらでできている。




