06. 入学式の後は蟋蟀の夢を見るか 「いつも通りの味」
白いブラウスに袖を通し、灰色のスカートを穿く。同じく灰色のベストを羽織って胸元に藍色のリボンを結び、いつも通りに髪を梳かして傷のある左半分の顔面を前髪で隠した。
最後に紺色のローブを身に纏うと、鏡を見る。
今日はリュウールシエル王立第一学園の入学式の日だ。
(たしかに、ちっちゃいから高等部一年生には見えないかも)
「エリエノール! 準備できた? 入っていい?」
「ええ、どうぞ」
ドアを開けて部屋に入って来たミクは、エリエノールより背が高く健康的な体型だ。この学園の生徒はほとんどみんなそうだが、羨ましいと思う。
(いいなぁ……)
貧相な体では、制服を着ても何を着てもあまり様にならない。もっと大人の色気溢れるナイスバディなお姉さんになりたい。
「エリエノールの制服姿可愛い。やっぱり、サイード様に愛されるだけある」
「そうでしょうか……」
ミクの言う小説の〝サイード様〟と現実のサイードは違う。小説の〝エリエノール〟と現実のエリエノールもきっと違う。
(醜いわたくしに誰かが惚れるなんて、あり得ない)
それゆえに、このように褒められても微塵も喜ぶことができなかった。自分の容姿の悪さは、よく分かっているつもりだ。
うつむいていると、ミクに腕を引っ張られた。
「ほら、準備できたなら行くよ!」
「はい、ミクさん」
(ああ、これが学校なのね)
寮から出るとたくさんの生徒が歩いていて、みんな同じ魔導師見習いのローブを着ていた。入学式だから当たり前のことかもしれない。
けれど目の前に広がる景色は、本で読んだことしかない、夢見た世界そのものだった。
(なんか、感動……)
「あ、サイード様だ」
「え?」
ミクの視線の先を目で追うと、たしかにサイードがいた。その隣には美しい純白の髪の令嬢――レティシアがいる。ローブの紺色に、真っ白の髪がよく映えている。
(今日もお美しい)
「チッ。悪役令嬢が、サイード様にベタベタしやがって。本当にうざい」
「ミクさん、お口が悪うございますよ?」
エリエノールは今日、自分以外の誰かがこんなふうに悪口を言われているのを生まれて初めて聞いた気がする。
(なんか、嫌だな)
自分以外の人への悪口でも、気分が悪くなることもあるのだということを知った。
「本当に性悪女なのに」
「そうですか……あ」
ふと、レティシアが後ろを振り返った。ぱちりとエリエノールとレティシアの目が合う。
レティシアがふわりと微笑み、エリエノールに向けて小さく手を振る。手を振り返すと彼女は頷いて、その後サイードの方に向き直った。
(今の、なんかちょっと友だちっぽい感じなのでは?!)
仲良くなりたいので、彼女が手を振ってくれたことが嬉しい。
明るく笑って話しているサイードとレティシアは、誰がどう見てもお似合いのふたりだった。高貴な美男美女で、素晴らしく絵になる光景だと思う。あの仲を裂くなんて、やっぱり無理だ。
「エリエノールは、あの女に手を振るような仲なの?」
ミクが不機嫌そうに聞いてきた。
「これから仲良くなりたいと、そう思っています」
「あいつ、本当に性格悪いから気をつけてね」
「……ご忠告感謝します」
小説のせいでレティシアを悪役令嬢だと思い込んでいるミクに、今何か言っても聞き入れてはくれないのだろう。きっとレティシアは、ミクが言うような人ではないのに。
(でも、どうせ説得できないんだろうな)
エリエノールは、そう諦めていた。
「良く晴れた青空の下、あたたかな春の日差しが――」
ホールで入学式が始まり、今は新入生代表――王太子サイードが、壇上で挨拶をしているところである。
ありきたりな内容から始まるその挨拶を、エリエノールはぼんやりと聞いていた。
周りにいる女子生徒の多くは瞳を輝かせ頬を染めサイードを見つめているが、エリエノールの頬は染まらない。ひたすらに青白いままである。
(いつ挨拶終わるんだろうな)
――なんて考えていると、ふとサイードの視線が生徒たちを見回すように動き、そして止まった。
「!」
サイードと、目が合ってしまった気がする。
(いやいやいや、そんなわけないない)
自分に勘違いだと言い聞かせ、即座に目を逸らした。
自分がサイードを遠くから眺めることはできても、自分が見られることや目が合うことは怖い。
サイードを見ないで済むように、自分の斜め前に座る誰だか知らない令嬢の髪に結ばれた紫色のリボンを一心に見つめることにした。
(とってもきれいなむらさきいろだなー)
「――最後に、今年はふたりの特待生が入学することになりました。神の祝福を受けた彼女たちと共に学べることを嬉しく思います。切磋琢磨し、素晴らしい魔導師になれるよう励もうと思います。これからの三年間が有意義なものになるよう、我々新入生一同、誠心誠意努力する所存です。――新入生代表、サイード・リュウールシエル」
みんなが拍手しながら、ちらちらとエリエノールとミクに視線を向けている。視線が痛い。気まずい。
式の最中なのでまだ何も言わないが、後でエリエノールとミクのことは虚実ないまぜになって噂に上るのだろう。
(あまり変な噂が立たなればいいなぁ)
入学式後の校内案内が終わって自分の部屋に帰ると、エリエノールはすぐさま制服とローブを脱いで部屋着に着替えてベッドに倒れ込んだ。
「はぁ……疲れた」
入学式、緊張した。疲れた。初めて教室というものに入るのが怖かった。
(ふたり、すっごくお似合いだった)
ベッドに埋もれながら、朝見かけたサイードとレティシアの姿を思い出す。仲睦まじい婚約者らしいふたり。
自分がサイードに恋をするなんてあり得ないと、改めて思った。ふたりの間にエリエノールが入る隙などない。ふたりの仲を裂きでもしたら、それこそ自分の方が悪役令嬢だろうとも思った。
(あ、そうだ)
しばらくベッドに突っ伏していると、あることを思い出した。そういえば今朝、サージュスルス王国から何か届いていたのだ。よいしょとベッドから起き上がると、机の上に置いてある箱を見る。
(昨日の荷物で、屋敷にあった私物は全て届けられたはずなのに……)
差出人は、ヘレナとネル。ふたりがすることなど大抵ろくでもないとは知っている。何が入っているのかと恐る恐る箱を開けたのだが、中身を見て拍子抜けした。
(なぁんだ)
箱の中には籠が入っていて、その中に瓶が何個か入っていた。それらを籠から取り出し、机の上に綺麗に一列に並べてみる。
「ふふふっ」
やはり、かなり疲れていたのだろう。別段面白くもないはずのそれらを眺めてひとり笑みを溢した。
小さな黒い目、触角、六本の脚。並べた瓶のひとつの中身は、蟋蟀である。
「かわいいなぁ」
ちなみに、この蟋蟀は別に愛玩動物ではない。とっくのとうに死んでいる蟋蟀だ。
それらが何匹も何匹もうじゃうじゃと、瓶の中に入っている。エリエノールは瓶を開け、蟋蟀を一匹食べた。
「……いつも通りの味」
ばりばりと外骨格を咀嚼してから、そうひとり呟く。
約三ヶ月前から食べ慣れたこの味。可もなく不可もなく。蟋蟀は普通だ。
エリエノールに虫だけを食わせるためにヘレナとネルが冬から屋敷に仕入れさせていたこれらも、エリエノールがいなくなれば誰も食べたりしないだろう。
だから屋敷に残っていた分をご丁寧にもこちらに送ってきてくれたということだ。
(貴重な、栄養源)
虫だって栄養になるのだから、ヘレナとネルには感謝しなくてはならない。
(ありがとう、姉様)
「姉様」という呼び方は、十歳の頃から許されなくなったけど。心の中ではいつも姉様だ。
「……ちょっと寝ようかな」
虫入り瓶を棚の中に並べると、仮眠をとるべくベッドの中に入った。夢には巨大な蟋蟀が出てきて、それに執拗に追いかけられた。
夢の中までなんだか疲れる内容だったが、もしこんな大きい虫が実際にいるのなら見てみたいなんて思った。
翌日、授業初日。
エリエノールは教室に入ると自分の席に着き、そばにやって来たミクと喋っていた。ここまでは、まだ平和だった。
少しすると突然、教室の騒がしさが増した。何事かと教室の入り口を見るとそこにはサイードがいた。
彼は胡散くさいほどのきらきらしい笑顔で、何人もの女子生徒に囲まれて教室に入って来た。
(え、何あの笑顔。気持ち悪い)
きゃあきゃあと甲高い声で話す女子生徒の声を聞いて、耳が痛くなる。
そしてふと、この女子生徒たちはサイードに恋をしているだろうかと疑問に思った。あんなに近くにいるのだからサイードに好意は抱いていそうだが、それは恋なのだろうか。
婚約者がいる相手に恋なんてしない方が良い。それがエリエノールの考えだ。ミクは何だかんだ言っているが、エリエノールはサイードに恋をする気もなければできる気もしなかった。
男の人には慣れていないから、ちょっとしたことで緊張して怖くなる。とてもじゃないが、あの女子生徒たちのようにサイードに近づく気にはなれなかった。恋なんて心配せずともできそうにない。
けれど、小説のことを聞くと不安になる。これでもしエリエノールがサイードに恋をして、サイードとレティシアの仲を裂いてしまったらどうしよう。本当に、小説通りの展開になったら。
(だから恋をしないように、殿下とは関わらない)
怖いから、関わりたくないし。
「おはよう。姫」
「……王太子殿下。おはようございます」
サイードはエリエノールの右隣の席に鞄を置き、挨拶をしてきた。ただそれだけなのだが、肩は思わず強張った。『おはよう』だけでも怖くて緊張してしまうのだ。
サイードの周りの女子生徒に一気に睨みつけられた気がしたので、さらに恐怖度が上がった。エリエノールはこの瞬間まで忘れたことにして現実逃避していたが、サイードは隣の席なのだ。
昨日は教室にいる時間がほとんどなかったので関わらずに済んだが、これから授業が始まればそうはいかないかもしれない。酷い席順だ。
この女子生徒集団の誰かが、サイードの隣の席になれば良かったのにと思った。
「サイード様、今日もイケメンですね。おはようございます!」
「ああ、ミク嬢。おはよう。良い天気だね」
ミクが馴れ馴れしく挨拶をすると、サイードも挨拶を返した。今度はミクが睨まれたようだ。
(そういえば……)
サイードはミクのことは名前で呼ぶのに、エリエノールのことは名前ではなく「姫」と呼んでいる。
エリエノールが〝神の血をひくお姫様〟の称号を持つからそう呼ぶのだろうが、ならば〝神の慈悲を頂く乙女〟であるミクを「乙女」などと呼ばないのは何故なのだろう。
(名前で呼ばれたいわけでもないし、どうでもいいけどね)
左で頬を染めているミクと、きらきらしい笑顔のサイードを交互に見やる。
(ミクさんこそ、実は殿下に恋しているのでは?)
そうしてふたりを観察していると、きらきらしい笑顔を少し潜めてからサイードが話しかけてきた。
「姫よ。君とふたりで話がしたい。付いてきてもらえるか?」
「……はい、殿下」
(すっごく嫌だ)
承諾しながら戦慄した。サイードを囲んでいた女子生徒たちの様子は尋常ではなかった。悪意に満ちた視線がいくつも刺さり、恐怖度がまたさらに上がる。
(嫌だよー、話したくないよー)
しかし、くだらない我儘で王太子である彼に逆らうわけにはいかない。渋々席から立ち上がり、教室から出ていくサイードの後に続いた。いったい何を言われるのやら。