11. 禁呪のマリオネット 「殿下に、会わないと」
【注意要素】
狂気、首絞め、痛い描写
(ひぇええ、壁ドン二回目……嬉しくない……)
サイードのときと比べたら怖くないけれど、やっぱり追い詰められて見下ろされるのは怖い。脚ががくがくと震える。
これからいったいどんな嫌なことが待ち受けているのだろう。
「虫食い姫さん、貴女はジャン君の恋人なの?」
澄んだ美しい声が、はっきりとした口調でそう問うた。壁に手を突いてこちらを見下ろすお姉さんは美しい人で、ブロンドの髪と菫色の瞳を持っている。
彼女の口から出た予想外の名前に、はてと首を傾げた。
「ジャン様……ですか? いいえ違います。ただのお友だちで、恋人などではありません」
「そう。なら良かったわ」
壁から手を離され、壁ドン状態ではなくなった。ひとまず安心だが、何故ジャンのことを――なんて考えていると、にわかにおかしな匂いが漂う。
「あの、すみませんが」
「何よ、虫食い姫。サンドリーヌ様に何か文句があるの?」
どうやら先程まで壁ドンしていた巨乳のお姉さんが〝サンドリーヌ様〟で、他の三人はそのご友人といったところらしい。
人との関わりが薄いゆえによく知らないが、きっとサンドリーヌはこの学園の中でも高めの地位に位置する家の娘なのだろう。
よくよく思い出せば、五階の他の廊下に並ぶ部屋の中に彼女の名前があったような気がしないでもない。
しかしエリエノールは別にサンドリーヌに文句があるわけではないので、首を横に振った。
この部屋には、強い鉄の匂いがする。
「どなたか、怪我とかされています?」
「は? なんでよ?」
「だって、血の匂い、が……っ!?」
ぐっと気道が狭められ、喉に変な感覚を覚える。サンドリーヌに、いきなり首を絞められたのだ。
菫色の虚ろな瞳がエリエノールを睨みつけ、その奇怪な行動に友人たちも慌てふためく。
「サンドリーヌ様、どうなさったのです!?」
「さすがに首を絞めるのは――」
「〈絶対的な力のもとにひれ伏せ。貴女は我が下僕、我が手足、我が傀儡。我が命に従はなくば死を与ふ〉」
それは、美しく歌うような声だった。まるで何かの舞台の女優のような――と言っても、エリエノールは舞台を見に行ったことはないのだが。
その詠唱がされたことに驚きすぎて、現実逃避するような思考をしてしまったようだ。
現実を真面目に見れば、今の状況はたいへんよろしくない。今まで聞いたことのないその詠唱の異常さは、酸素が足りずにくらくらとした頭でも分かる。
これは人にかけることを許されない、禁じられた魔法――禁呪のはずだ。耳元に唇が寄せられ、恐ろしい「命令」が囁かれる。
「男子寮に忍び込んで、王太子殿下の前で服を脱いで誘惑してきなさい」
(なに、それ……)
何故そんなことを、なんて考えていられたのはほんの数秒間のことだった。
命令が頭の中にがんがんと響き、次第に意識が混濁していく。
頭にぬるま湯が詰まってしまったような感覚だった。
ぼーっとして、普段は分かることが分からなくなっていく。
それでも首から手が離れたことは分かったし、ブロンドの髪が視界から消えてドサリという音がしたのも分かった。
「サンドリーヌ様っ!!」
「どうしましょう、意識がないわ!」
「ちょっと、虫食い姫!?」
彼女の友人たちが何か言っている声は耳には入ったが、脳に届く前にぬるま湯に溶けてしまった。
部屋から出て、廊下を歩いて、階段を下りる。
女子寮から出て、大談話室の前を横切る。
東へと歩いていく。
「おい、あれって最近噂の姫さんじゃないか?」
「お前何言って――うっそ、まじじゃん。え、あいつ男子寮入ってったけど。やばくね?」
低い声が聞こえる。
よく分からない。
二階の東の扉を開ける。
中へと踏み込む。
バタンと扉が閉まる音がする。
一瞬の水を打ったような静寂。
にわかにざわめく低い声。
がさがさと、ざわざわと。
やたらと肌色ばかりの背景だった。
きょろきょろとあたりを見回した。
殿下はみあたらない。
殿下がいない。
(殿下、どこにいるの?)
じわりと涙が滲みそうになる。
ちくりと痛む胸を押さえる。
ただ歩く。
殿下はなかなかみつからない。
殿下にあいたい。
(痛い、痛い……)
胸がちくちくと痛い。切ない。
心臓が泣いているみたい。
そんな痛い思いをする。
ときおりふらつく。
倒れそうになる。
殿下をさがす。
殿下。殿下。
殿下。
「エリエノールっ!?」
誰かの声がした。
視界が暗くなる。
布が目の前にある。
ローブか何かのよう。
腕を引かれる。
何処かへと連れて行かれる。
殿下じゃない誰かにさわられ、さらわれる。
殿下にさわって、さわられたいのに。
誰かさんが腕を引く。
しばらく走る。
足が痛い。
ようやく立ち止まった。
布が剥がれる。
また明るくなる。
「エリエノール、何やってんだ!?」
「……?」
これは、人だ。男の人だ。
エリエノールと、名を呼ばれた。
だから、知っている人のはず。
金髪。赤茶色の瞳。
この喋り方。匂い。
誰だろう。誰だったっけ。
――ああ、ジャンか。
肩に紺色がある。
ローブだ。邪魔だ。
退けた。彼の顔を見る。
焦っているみたいだ。
ここにはひと気がない。
何故こんなところに。
殿下がいない。
いる意味がない。
「なあ、なんでこんなところにいるんだ?」
「こんなところ……?」
「ここ、男子の脱衣所だぞ」
だから何だ。
それは悪いことなのか。
よく分からない。
「ねえ、殿下は?」
「は?」
「殿下はどこにいるの? あと、これいらない」
ローブを返す。
あたりを見渡す。
他の人の姿も見えない。
殿下はいない。
話し声が聞こえる。
向こうからだ。
殿下がいるかもしれない。
あっちに行こう。
殿下をさがさないといけない。
殿下にあわないといけない。
それなのに、できない。
腕を掴む手がある。
邪魔者がいる。
「……何?」
「『何?』じゃないよ。エリエノール、なんかおかしいって。医務室に行こう」
「医務室……? なんで?」
殿下はそこにいるのか。
医務室に行ったら、会えるのか。
それなら行っても良い。
「エリエノールの様子がおかしいから。なんか変な物でも食べた? それとも誰かに何かされた?」
「……知ら、ない。殿下に、会わないと」
とにかくいまは、殿下にあわないといけない。
殿下をみたい。
殿下のこえをききたい。
殿下がいないなら、しんでしまう。
こわい、こわい。
胸が、苦しい。
「殿下に会ってどうするんだ?」
「あなたには、関係ない」
「エリエノール、駄目だって。……もっと変な噂立つよ」
「でも、殿下に、会わないと」
胸が痛い。
酸素が足りない。
頭も痛い。
殿下にあわないといけないのだ。
殿下にあわないと、もっといたくなるのだから。
殿下に、殿下に。
「手、はなして」
「駄目だ。医務室に連れていくから。本当におかしいよ。錯乱の魔法にでもかかったか?」
「いやっ、はなして。いたい……!」
痛い。苦しい。
もう立てない。
足が崩れる。
力が入らない。
ジャンの胸に受け止められる。
妙に温かい。
殿下のあたたかさに、ふれたい。
「エリエノール、大丈夫か!? まずいな。誰か助けを――」
「何の騒ぎだ?」
「うわぁっ!! ……なんだ、殿下ですか」
「殿、下?」
声が聞こえる。
ききたかったこえだ。
顔を上げる。
目の前には彼がいる。
あいかった殿下だ。
胸の痛みが、なくなった。
嘘のように、和らいだ。
殿下だ、殿下だ。
ボタンを外す。
「彼女が何故ここにいるんだ?」
「それは……って、エリエノール! 何してんのさ!?」
「……何って?」
手をジャンに押さえられた。
襟は中途半端に開けたまま。
これでは十分ではない。
脱がないといけない。
殿下にみてほしいのに。
殿下にみられたいのに。
「男子寮に女を連れ込んでいちゃつくとは……良いご身分だな、ジャン。君も服を脱いでいるようだし、なんだ、情事でも始める気か?」
「俺が連れ込んだんじゃないですし、服着てないのは風呂から出たばっかりだからですよ。下はちゃんと履いてますし、情事だなんて滅相もない。んなことより、殿下。彼女が――エリエノール、脱いだら駄目だって」
「なんで? やめて、やだっ」
脱ぎたいのに、邪魔される。
ボタンを外すのを、止められる。
また胸が痛くなる。
不安と恐怖がやってくる。
心をじわじわと侵食してくる。
彼を見てから和らいでいたのに。
痛みが、また襲ってくる。
『服を脱いで誘惑してきなさい』
(ああ、そっか)
痛いのは、やるべきことをやっていないからだ。
そうだ、殿下をゆうわくしないといけなかった。
ふくをぬいで、ゆうわくして。
ジャンが邪魔だ。この手が邪魔だ。
「ねえ、はなして。ほんとに、いたいの」
「ごめん、力強かったか? 殿下、彼女は今なんかおかし――って、エリエノール!」
ジャンの手が緩む。
その手を跳ね退ける。
殿下。
彼に駆け寄る。
ぎゅっと抱きつく。
殿下のあたたかさに、ふれる。
殿下のにおいをかぐ。
殿下。殿下。
「すき……」
あたたかくて。
心臓がとくとく言っていて。
いい匂いがする。
落ち着く。
もっと、もっと。
殿下がほしい。




