06. 色づく日々と赤色 「こんな馬鹿な俺を見捨てないでくれて」
【注意要素】
ややシリアス?、流血描写
「俺さ、小さい頃から『役立たずの駄目な子』だったんだ」
「え……?」
ジャンの口からこんな自分を卑下するような言葉が出るのが信じられなくて、エリエノールは困惑した。
「役立たず」とか「駄目な子」というのは、まさにエリエノールみたいなののことを言うのだろう。
優しくていつもにこにこしていてみんなから慕われるようなジャンに当てはまる言葉ではないと思った。思っていた。
ジャンは忌々しげに、いつも明るい彼からでもこんな暗さのある声を出せるのかと思うほどの調子で、自分を否定するような言葉を吐いた。
「昔っから俺は馬鹿だった。いらない子だった。勉強しても結果出なくて、いつも出来の良い兄貴と弟たちと比べられてた」
「……」
ジャンに兄や弟がいることは知っていた。けれど比較されていたという話は、今日初めて聞く。
「……褒めてもらいたくて、認められたくて、頑張ったんだ。でも駄目で、いつの間にか誰も何も俺に期待なんてしなくなった」
ジャンから吐かれていく言葉に、何も言葉が出なかった。淡々と吐かれていくその言葉に込められた感情には、エリエノールにも覚えがある。
きっと彼は、諦めてしまったんだ。
「だから、勉強頑張るのやめた。頑張っても意味ないなら、最初っから頑張んない方がいいじゃんって」
分かる。痛いほどに、分かる。
エリエノールの場合は勉強ではないけれど――いつしか義姉からの暴力に抵抗するために頑張るのを、やめた。
頑張っても義姉はやめてくれないから。抵抗したら余計酷くされるから。痛みに体が勝手に反応することはあっても、自分の意思で動こうとすることはやめた。頑張る意味がなかった。
「でも、頑張るのやめたら……何にもなくなっちゃった。空っぽになって、なんで生きてんのか分かんなくなった」
言葉は何も出せないのに、瞳からは涙が落ちた。自分の心を表す言葉はうまく出てこないくせに、涙だけは一丁前に心に従って流れるのだ。
ジャンの指がそれを拭い、そして困ったように笑う。その笑みに余計に心を締めつけられる。
生きている理由が分からないなんて気持ちは……エリエノールには、分かりすぎた。何にもなくて空っぽな感覚は、とてもよく分かる。この国に来るまでは、毎日そうだった。
「だから、こうなった。いつもにこにこして明るくして、馴れ馴れしくして。それで女の子に優しくすれば、誰かは俺を見てくれる。必要としてくれる。……家の奴らも、良い家のお嬢様を嫁にできるならって、喜んだ。生きる意味が欲しくて、こんなちゃらちゃらした男になった」
何にも知らなかった。ジャンが馴れ馴れしいのは、コミュニケーションが得意なのは、元からだと思っていた。そういう素質のある人、みたいに思っていた。
(わたくし、馬鹿だ)
勝手に決めつけて、ジャンが頑張った末にこうなったことに気づいていなかった。何も知らずに、その気さくさを羨んでいた。
きっと、選別していたのだ。この世界には勝ち組と負け組が最初からいて、自分は負け組側だと。彼は勝ち組側だと。
みんな生きていたら、悩みや苦しみはあるはずなのに。頑張って頑張って幸せを掴んだはずの人のことも、〝恵まれた人〟として一緒くたに考えて羨んだのだ。
今まで何にも知らなかったから。外の世界を初めて見て、初めてまともに人と心を通わせたから。
無知なまま、キラキラとしているみんなを表面だけ見て羨ましく思っていたエリエノールは、馬鹿だった。独りよがりだった。
「そんな泣いたら、可愛いお化粧崩れちゃうよ? まあ、化粧してなくてもエリエノールは可愛いけど」
「だ、だって……」
ぽろぽろと零れる涙を、丁寧に拭われる。
今まで、ひとの弱さを見たことがなかった。ひとりで苦しいと思うことはあっても、ひとの辛さや苦しさを知ることはなかった。
生きる辛さを抱えているひとが他にもいることを、初めて知った。
「もう、泣かしたくてこんな話したんじゃないんだけど……あのな、エリエノール」
「……はい」
「エリエノールが勉強教えてくれて、こんな馬鹿な俺を見捨てないでくれて。……また、勉強頑張ろうって思えた。楽しいと思えた。……だから」
くるりとターンをする。紫陽花色と重なる水色と桃色のスカートが、ふわりと広がる。涙の雫が散って光る。
腰を引き寄せられ、耳元で囁かれた。
「ありがとう、エリエノール」
心に響く、声だった。こんなに温かい『ありがとう』は初めて聞いた。こんなに心の動いたこの日のことを、エリエノールはきっと一生忘れないだろう。
無機質だった日々が、色のなかった日々が、毎日どんどん鮮やかになっていく。初めての感情を、少しずつ知っていく。
「……どういたしまして、ジャン様」
新しい涙は、もう流れなかった。エリエノールの顔に浮かんだのは、満面の笑み。ふたりで笑って、この時間をめいいっぱいに楽しんだ。
つつがなく踊り、もうすぐ曲が終わる、そんな頃。一瞬、何かおかしなものを目の端が捉えた。それをもう一度見ようと、きょろきょろと辺りを見回す。
「エリエノール、どうした?」
「ああ、ちょっと……」
美しいレティシアとサイードが踊る姿が見える。ミクとダルセルが踊っているのも見える。ミクはダルセルの足を踏んでいた。ダルセルは無表情だ。他にもいろんな人が踊っている。
あの人も違う、この人も違う。
そして見つけた。異様なふたり組を。
(なんで……)
人は普通、自分と同じ属性適性の魔力を感じやすい。しかしエリエノールはどの属性の魔力も見分け、嗅ぎ分けることができた。
人をよく見れば分かる、その人の魔力の色が。そして魔力の匂いも、自然と分かる。
エリエノールは魔力を封印されている。魔力を外に出せたことがないため、自分の適性は知らない。それでも、他の人に宿る魔力の存在はどの属性でも分かって当たり前だった。
なのにその異様なふたり組は、魔力の色も匂いも全くなかった。このあたりでは少ない黒髪黒眼を共に持った男女だった。
踊りながらそのふたりに注目する。男の方と目が合った。その漆黒の瞳が見開かれる。
(っ、なに……?)
一瞬、くらりとするほどの強い魔力の匂いが漂った。よろめいたエリエノールをジャンが支える。
「大丈夫か、エリエ――」
「ジャン様、避けて」
か弱いけれども全力で、咄嗟にジャンの肩を押した。肩に嫌な感覚が走る。ジャンに当たるのは避けられたが、エリエノールは完全には避けられなかった。
「っ……」
「エリエノール!?」
曲が終わる。紫陽花色に赤が滲む。鉄の匂いが漂う。
(あー、やっちゃったなー……)
ぱっくりと開いた傷口を、右手で押さえつけた。左肩が裂けて、流れる真っ赤な血が絹の袖を染めていく。
ジャンが目を丸くして、きっとその赤を捉えていた。
(何か、言わなきゃ)
心配をかけてはいけない。これくらいの怪我、今まで義姉から受けてきた暴力と比べたら何でもない。
大丈夫だって、伝えるために。
しっかりと口角を上げた。
「大丈夫、ですよ。このくらい……」
「大丈夫じゃないだろ!? だって血が――」
「姫っ!!」
「ちょっ、殿下!?」
心配そうにこちらに寄ろうとしたジャンより先に、エリエノールの元に駆け寄ったのはサイードだった。
エリエノールはあっという間に抱えられ、サイードは走り出す。驚いてすぐに傷のことなんてどうでもよくなった。
(いや、何してんのよ――!?)
サイードはレティシアのパートナーなのに、彼女を放っぽって。エリエノールのパートナーはジャンなのに、彼の許可なく連れ去られてしまった。
人々が驚きざわめく姿が目に入らないのか、サイードは脇目も振らず何処かへと走る。
(ああもう! 馬鹿!)
せっかく余計な関わりを絶っていたのに。せっかく安寧になったのに。
またこんな抱っこされている姿を見られたら、面倒くさいことになるではないか。
『殿下と一緒にいられて嬉しいなどと思ってはいませんか?』
合宿の日にカリンに言われた言葉が、ふと脳裏に蘇る。
(決して、嬉しくはない)
殿下に触られるの久しぶりだな、なんて思うのは。それは単なる事実だ。
やっぱり礼服姿かっこいいな、なんて思うのは。それは彼の顔が良いのが悪いのだ。
出会った日とおんなじ、おそらく彼のつけている香水の柑橘っぽい匂いに気づいてしまったなんて。嗅覚は操れないから仕方ない。
鼓動が速いのはこの距離感に緊張しているせい。あとは肩から血が出ているせい。
殿下が心配してくれたなら嬉しいな、なんて。……決して、思っていない、はずだ。
ひとつの部屋――たぶん休憩室のひとつ――に連れ込まれ、そして鍵を閉められた。ソファにどさりと下ろされ、彼の手が背へと伸びる。
ぷつんという小さな音と緩む襟元に驚き、肩の傷のことも構わず両手でサイードを押し退けた。傷口が開くのに気づいたが、そんなことより問題はサイードだ。
「なっ、何故ボタンを外すのですか?!」
「傷を見せろ」
何が『傷を見せろ』だ。そんなことのために勝手にドレスを脱がそうとしたと言うのか。夜に部屋にふたりきりで服を脱がすなんて、もう醜聞になるとしか思えない。エリエノールの知識によれば、これは〝不貞行為〟たるものにあたりそうなものだった。
「傷痕では飽き足らず、今度は生傷ですか!? 本っ当に悪趣味ですね! 絶対に嫌です」
「違う! ……違う。僕が、治すから。だから見せて?」
あの日のように。合宿最終日にエリエノールの拒絶の言葉を聞いた後のサイードのように、なんだか幼い感じの言葉だった。
部屋の明かりは点いていない。窓から差す月明かりだけが照らすこの部屋で、明るいオレンジ色の瞳は潤んで不安げに揺れている。
「……お願い、だ」
この願いを聞かなければ、壊れてしまいそうな。そんな切実な声な気がした。
何故こんなことを彼がわざわざ願うのかは分からない。傷のことが気になるなら、サイードが治さずとも医者に見せればそれでいいだろうに。
それにサージュスルス王国の屋敷にいた頃は誰も治療なんてしてくれなかったから、どんな傷でも自然治癒力に任せていた。こんな傷、別に放っておいてくれて良いのだ。
(ほんと、面倒くさい人)
「……肩しか、見せません、から。他のところは、見ないでください」
結局そうやって流されるのだ。他の人の目はないし、別に良いかと無理矢理納得させてしまって。
だって貴方が辛そうだから。
これ以上辛くさせてしまいそうな言葉を、吐けなくなってしまうのだ。
拒絶したら辛そうになるのを知っているから、そうするのをためらってしまうのだ。
「うん、分かってる」
「じゃあ……下の方、まで、外してください」
普段なら自分で外せるが、今日自分でやったら傷口が開いてしまいそうだから。だから仕方なく彼に頼んだ。
ちゃんと分かっている。彼は傷を治すために見たいだけで、何ら後ろ暗いことはないはずだと。それなのに脱衣を促すこの台詞を口にするには、とんでもない羞恥心を伴った。
彼の顔を直視できずに、ソファに張られた生地へと視線を向ける。再び背へと伸びた手が暗闇の中で感触を頼りにボタンを探し、そして外されていく。
背に伝わる指の感触とともに、ドレスは徐々に頼りなく緩んでいった。衣擦れの音に、彼の息遣い、そして心臓の音。それらがやけによく耳に届く。
「全部、外せた」
「はい」
「見て良い?」
「肩、だけなら」
左肩を覆うドレスを、ゆっくりと下ろされる。真っ赤に裂けた傷口が、夜の冷たい空気に触れた。古い火傷や鞭打ちの痕は、血にまみれている上に暗闇だから見えないと信じよう。
サイードの手が、赤に濡れた肩へと伸びる。




