03. この世界は小説の 「主人公のエリエノールが、サイード様に恋する話」
「だっ――どなたですか!?」
「そんな怯えないでよ。別に襲おうってわけじゃないんだし。こんばんは、本物のエリエノール」
聞こえた声が女性の声だったので、ひとまず安心した。
おそらくきっと貞操の危機にはならないだろう。
(この声と話し方は……)
「貴女は……ミクさん……ですか?」
今日会ったばかりなので自信はなかったが、なんとなくミクな気がした。
ミクは異世界からこの世界に来て、〝神の慈悲を頂く乙女〟の称号を持ち、神と会話する能力がある、黒髪黒眼の少女だ。
「名前覚えててくれたんだ、嬉しい。わたし、エリエノールにお話があってここに来たの。起きたんだったら聞いてくれる?」
「ミクさんは、何故このような時間帯に寝室に忍び込んできたのですか?」
今は真夜中。
こんな時間に無断で寝室に侵入するなど、非常識としか思えなかった。
「ん、ごめんって。でもね、こっちだって事情があったのよ。エリエノールにしか話せない、大事な話があるの」
「……大事な話ですか」
謝罪は軽かったが、後半は真面目な声色で言ったミク。
本当に大事な話なら、少しは聞いてみても良いのかもしれない。
常識はずれの時間帯の訪問だったからと、何も聞かずに追い返すのも酷だろう。
「では、お話は聞きますから……ひとまず、わたくしに覆い被さるのをやめてください」
「はいはい。退きましたよー」
「どうも。それで、大事な話とはいったい何ですか?」
ミクはエリエノールの上から退くとベッドの縁に腰掛け、投げ出した足をぱたぱたとさせながら話し始めた。いかにも重大なことだと言うような、たいそう真面目な声色で。
「あのね、この世界は……小説の中の世界なの」
「……はい?」
(今、何て言った?)
「この世界は、小説の中の世界なの」
「はぁ……」
聞き返すと、ご丁寧にも同じことをもう一度言ってくれた。驚くべきことに、聞き間違いではなかったらしい。
この世界は、小説の中の世界である。
うん、意味不明だった。
何処の誰が書いたどの小説なのかも知らないのに、こんなことを言われても分かるわけがない。
そもそも、現実が小説の中の世界だなんてことはあり得るのだろうか。
「……信じてないでしょ?」
「いえ、理解ができなかっただけです」
信じていないわけではない。
というか、まだ信じるとか信じないとか判断できる域に達していない。
「もう少し、詳しく教えていただけますか?」
自分にとって意味不明な話でも――それはそれは疲れている上に睡眠を妨害されているが――すぐには押し退けずに聞こうとする心の広さくらいは、持ち合わせているつもりだ。
寛大な心を持っていなければ、今までこうして生き延びることはできなかっただろう。我慢できずに義姉に反撃でもしようものならきっと、やり返されて終わるだけだったに違いない。
「んーっとね、わたしが異世界にある日本って国から来たってのは、神殿でエリエノールも聞いたから分かってるでしょ?」
「はい」
異世界というのは文字通り、この世界と異なる世界のことで、普段は交わることはない。ミクの言う〝日本〟という国はこの世界の地図には存在しない。
しかし、何らかの要因で―― 一説には、神の気まぐれで――異なる世界同士が繋がってしまうことがあるらしい。
別の世界にいた者がこちらの世界に飛んできたり、はたまた別の世界での記憶を持ったままこちらの世界に生まれてきたり。
彼女はきっと〝日本〟のある世界からこの世界へと飛ばされてきたのだろう。
「それで、日本でわたしが読んでたラノベ――小説に、エリエノールたちが出てきたの」
「ただ同じ名前なだけではなく?」
「エリエノールもサイード様も、小説の描写と同じ容姿。国や地域の名称や世界観、エリエノールが置かれている境遇も……全部小説と一緒なの。わたしもここに来てすぐは信じられなかったけど……やっぱり、何度考えても小説の中の世界だとしか考えられないんだ」
ただの妄想なのではないかとしばし思っていたが、一応ちゃんと彼女なりに考えていたようだ。心の中で謝罪しておく。
(疑ってすみません)
彼女の話が本当のことならば、なかなか奇妙で興味深い話だ。滅多に繋がらないはずの異世界に、この世界のことを書いたらしい小説がある。いったい何故なのだろう。
「その小説というのは、どういうお話なのですか?」
「……聞きたい?」
「はい」
何も知らないよりは、あらすじくらいは知っている方が良いだろう。
エリエノールも、この世界とミクのいた世界との関連については興味がある。
異世界のことなんて滅多に知る機会がないから、ぜひとも詳しく知りたかった。
「メインのジャンルは恋愛かな。あとファンタジー。主人公のエリエノールが、サイード様に恋する話」
その小説の中で〝エリエノール〟が主人公であるということも驚きであったが、問題はその次の言葉だ。
(エリエノールが、サイード様に恋する?)
「サイード様というのは……王太子殿下のことですよね?」
「うん、もちろん。イケメンハイスペック天才高身長のリュウールシエル王太子サイード様のこと」
やたらと長くサイードを形容する言葉がくっついていたが、一応確認してみればやはり〝サイード様〟はこの国の王太子である彼のことだ。
そんな彼に、エリエノールは恋をするのだという。
しかし、それはおかしい。
「夕食のときのお話では……殿下には婚約者様がいらっしゃったのでは?」
たしか相手は、ルクヴルール公爵家のレティシアという令嬢だ。
婚約者のいる相手に恋をする話なら、その小説はどろどろの不倫愛憎劇だったりしたのだろうか。
もしそんなことになったら大変だと心配しているエリエノールに、ミクは何でもないことのように軽い口調で言った。
「ああ、それね。悪役令嬢ね」
「あくやく……?」
〝悪役令嬢〟という言葉を、エリエノールはいま初めて聞いた。
悪役というと、物語では主人公の敵という役回りだろうか。
役という言葉は、受け持ちの任務とか、演劇で役者が演じる人物とかという意味もある。
それなら、悪い人であるように演技していたりする人なのだろうか。
演じているだけなら、本当は良い人だったりするのだろうか。
〝悪役令嬢〟とは何ぞやと、しばし考え込んでしまった。
「悪役令嬢レティシアは、取り巻きと一緒に主人公エリエノールを虐めてサイード様との恋路を邪魔する悪いやつなの! エリエノール、気をつけてね」
「ご忠告には感謝しますが……〝悪役令嬢レティシア〟ってそんなに悪い人ですか?」
今の話を聞く限り、〝悪役令嬢レティシア〟はそんなふうに〝悪役〟なんて言われるべき人ではないような気がした。
自分の婚約者に他の人が手を出そうとしていたら、止めようとするのは当然のことだろう。それは決して悪いことではない。
「エリエノールを虐めるから悪い人だよ」
「虐めはもちろん悪いことです。でも、他人の婚約者に恋なんてする方も悪いと言えません? あ、だからって虐めは駄目ですよ。悪いことしたら虐めても良いとかではなくて……。その、恋をして、想ってしまうのまでは仕方ないとしても……その恋は進めずに諦めるべきではありませんか? ただの密かな片思いで終わらせれば良いのではありませんか?」
「そんなこと言っちゃって、エリエノールがこれから恋するのにね。そんな考えじゃ、罪悪感で苦しむぞ!」
なんだか茶化されたような気がするが、エリエノールはもちろん恋なんて知らない。
今まで人との関わりをほとんど絶ってきたのだから、恋などできるはずもなかった。それゆえに、あのような机上の空論しか語れない。
初めて会ったサイードは、たしかに背が高く見目麗しい青年であった。彼を慕う女性も多いことだろう。
しかし、ではエリエノールが彼に一目惚れしたかと問われれば、全然惚れていないと答えられる。
見た目は良いと思うが、いかんせん男性慣れしていないので怖さの方が勝っている。しかも剣と悪口の件がかなりの低評価だ。
相手に婚約者がいると分かっていながら、恋に落ちるなんてあるのだろうか。そういう話があることは知っているが、自分がそのようになる想像はできなかった。
「わたくしは、恋なんてしません」
「ま、今は別に良いけどね。でもどうせ恋することになると思うよ。……あ、そうだ。その前髪って傷隠しでしょ?」
「なっ……! 何のことですか」
思わず声が上ずった。慌てて左頬に手で触れる。
エリエノールはいつも、長めの前髪で顔の左半分を隠している。サイードにヴェールを剥がれた後に慌てて押さえたのも、このためだ。
(まさか、見られた?)
細心の注意を払っていたはずなのに。……この、醜い傷痕を。
「小説の展開では、もうすぐその傷痕なくなるよ。信じるか信じないかはあなた次第って感じだけど。困ったことがあったら助けてあげる。それが〝神の慈悲を頂く乙女〟の役割だからね。仲良くしようよ。じゃ、バイバイ」
「……はい。おやすみなさい」
言いたいことは言い終わったのか、ミクはベッドから降りた。
傷はきっと見られたのではなく、小説に書いてあったことを言っただけなのだろう。実際に見られたら気味悪がられそうなので、見られていないのなら良かったと思う。
寝室から出ようとするミクを見て、ふと疑問に思った。
「……そういえば、どうやってこの部屋に? 警備の者が通したのですか?」
この辺りの部屋の外の廊下は、夜でも騎士が警備しているはずだ。何故ミクはエリエノールの部屋に入ってこられたのだろう。
答えを返すミクの声色は、軽いものだった。
「ねえ、エリエノール。物語の中の警備なんてさ、たいてい役立たずでしょ? 童話とかだって、ちゃんと警備してたら姫がさらわれたりしないっての」
たしかに童話や物語では、その世界には警備なんて存在していたのだろうかと思う場面もある。
悪い魔女が易々と城に侵入して姫に呪いをかけたりさらったりする物語を、エリエノールも読んだことがある。
「物語の中ではそうだとしても、それは語弊があると思いますが。城の警備も、物語のように役立たずだと?」
ここは現実で、実際に姫がさらわれたりしたら大事件だ。騎士が護衛対象を守れなければ、酷い場合は死を以て償わなければならないような世界のはず。
「いや? 別にそんなことないと思うけど。でもやっぱ、わたしって〝神の慈悲を頂く乙女〟だし? わたしが頼めば下っ端警備なんて言うこと聞いてくれるよー」
つまり、神の慈悲を頂く乙女であることを利用して自分の我儘を通したということか。
「神の祝福を受けたとはいえ……それで得た権力を、無闇に振りかざすのはよくありません」
「真面目だね。エリエノールもそのうちそのチートポジション利用することになるのに。ま、とりあえずまた明日ね」
「ええ、また明日」
ミクはまた異世界の言葉らしいものを吐いてから、部屋を出ていった。耳をすませると騎士とミクが何か話しているような声が微かに聞こえたが、内容までは分からなかった。
(情報過多……)
頭が変に重い。ほぐすようにこめかみを押さえた。
リュウールシエル王国に来てからいろんなことを聞いて、頭は破裂寸前だ。気になることはいろいろあるが、このまま考え続けたら頭がおかしくなってしまいそう。
考え事は明日にして、早くもう一度眠ろう。
そう決意して目を固く瞑ってから数分後には、エリエノールはもう寝息をたてていた。