17. 蟻は足を登り、飛蝗は火に入る (……死んでる)
さあ、どうしたものだろうか。
地面に横たわって、空を見上げながら考えた。ぱっと見る限り、崖の高さは大人の人間五人分くらい。崖にしては低めだが、エリエノールには登れない。
何度も転んだ上に崖から落ちたとなれば服は土や泥で汚れているが、体にはさほど問題ないように思える。
疲労以外に唯一問題があるとすれば左足が異様にずきずきと痛むことだが、痛みにはある程度慣れているから耐えられなくはない。
(でも、けっこう痛いから歩けないなぁ)
今のエリエノールはただ単に、足を痛めて泥だらけで崖の下に転がっているだけである。カリンの姿はもう全く見えないからここにはひとりきりだ。
(つまり、めちゃくちゃ暇)
とりあえず、いつまでも地面にべったり貼り付いているのもどうかと思い、ゆっくりと起き上がった。しかし左足は痛くて使い物にならないので、何処か遠くに行けるわけではない。
いつ見つけてもらえるかは全く分からないが、それを待つしかないのだろう。
(何しよっかなー。あ、枝だ)
暇潰しに、その辺に落ちていた枝を拾って地面に魔法陣を描き始めた。
(やっぱ、あれかな)
今は古代魔術の教科書が手元にあるわけではないが、少なくとも授業でやった魔法陣はもう頭の中に入っている。古代魔術の授業のことを思い出しながら魔法陣を描いていった。
(できたー、わーい)
出来上がったのは〝物を燃やす魔法陣〟である。発動条件を描き上がりから一分後に設定して、魔法陣の上に枯れ葉や枝を載せた。少し待てば燃え始め、焚き火の完成だ。
(いぇーい)
本で以前、焚き火のことは読んだことがある。焚き火があれば、目印になって見つけてもらいやすくなるかもしれない……らしい。炎を眺めながら考え事を始めた。
こうして崖から転落して迷子になってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。落ちてからしばらくは気絶していたようなのだが、その時間はどのくらいだったのだろう。
ここには時計がないので詳しくは分からないが、太陽を見れば昼過ぎくらいだろうなということは分かる。
こんな状況だというのに、空を見れば清々しくなれるくらいに良い天気だ。他のみんなはもう飛行魔法訓練を始めた頃だろうか。
(人が箒で空飛ぶとこ、見たかったなぁ)
これから他にも見る機会はあるかもしれないが、こんなふうにひとりぼっちでいるよりは訓練を見学したかった。
(殿下は大丈夫かな?)
アベルは「館に着いたときに揃っていればお咎めなし」と言っていた。しかしそれはつまり、館に着いたときには揃っていなければ駄目だということではないか。
失せ物探しをしていることはレティシアが伝えてくれたはずだが、これでサイードに迷惑をかけてしまっていたらとても申し訳ない。後からネチネチ言われそうで嫌だ。
(カリン様は、もう館に着いたかな?)
彼女はエリエノールを痛い目に遭わせるために時計をなくしたと嘘をついたようだが、これをレティシアは知っているのだろうか。
『悪役令嬢レティシアは、取り巻きと一緒にエリエノールを虐める』。そうミクは言ったが、仮にこれが虐めの一環だとしてレティシアはそれに関与しているのだろうか。
(レティシア様は、白だといいなぁ……)
サイードに触られても大して抵抗せずにいちゃついていたエリエノールが悪いのでそうだとしても文句は言えないが、レティシアが自分を崖から落とす計画に関わっていたら少し悲しい。
カリンが勝手にやったことであって欲しいなんて願うのは、愚かなことだろうか。
「……暇だなぁ」
魔法陣を描くのに集中していた間と考え事をしていた間は良かったが、終わるとまた暇になってしまった。何もすることがないなら、空を眺めるしかない。しばらくぼーっと空を眺めた。
(あれは、竜の翼の形。あれは、粘液餅……)
ちなみに、どれも本でしか見たことはない。
雲が何の形に見えるかとか考えていると、ふと右足に違和感を覚えた。視線を落としてみると、そこには蟻が歩いていた。蟻がエリエノールの足の上を登り、また地面へと降りていく。
(なんか山登りしてるみたい)
蟻を眺めれば多少暇潰しにはなるだろうと、今度はただひたすらに、足の上を歩いていく小さな黒い点々を眺めつづけた。
蟻の行列が去っていくと、また焚き火を眺め始める。ゆらゆらと揺れるオレンジ色と、ぱちぱちと爆ぜる音はなんだか落ち着く。
そんなふうに見ていると、何か小さなものが焚き火の中に飛び込み、火の中に吸い込まれていくのが見えた。
(なんだろう?)
木の枝で焚き火を探ってみると、出てきたのは一匹の飛蝗だった。まさに飛んで火に入る夏の虫、詳しく言えば飛んで火に入る初夏の飛蝗だ。語呂が悪いのは気にしない。
(……死んでる)
飛蝗さんは残念ながらお亡くなりになってしまったようであった。
(ご冥福をお祈りします)
エリエノールが火を焚いていなかったら死ななかったのだろうかなんて多少の罪悪感に駆られながら静かに弔いの意を表しつつ、その飛蝗を食べてみた。だって虫は食べ物だから。
「……微妙」
命をひとついただいておきながら、口から出た感想はそれだった。
(ただ焼いただけじゃ、あんまり美味しくないんだ……)
ヘレナとネルが寄越してきた虫の方が美味しかったが、あれは一応調理されたものだったからそれも当然かもしれない。
けれど地下室の虫よりは、この飛蝗のほうがましだ。ポジティブに評価すれば、この焼き飛蝗は地下室の虫よりは美味しい。
(もし自分で虫を料理することがあったら、今度は調味料があった方が良いなぁ)
そんなことをぼんやりと考えて、目を瞑る。もうすることがないので、一度寝ることにした。
(生きるのには睡眠も大事だよね)
(おはよう、自分)
起きたら、辺りは暗くなりつつあるところだった。寝たら少し疲れがとれたような気がするが、左足は相変わらず痛い。
(昼間より寒いなぁ)
もうすぐ真っ暗な夜になって、もっと寒くなってくるだろう。光源にして暖を取るため、もうひとつ焚き火をつくることにした。
({燃焼する}……{火}……)
ひとり黙々と魔法陣を描いていると、しだいになんだか不安になってきた。ここでひとり夜を明かすのだろうかと思うと心細い。
(もし、ずっと誰にも見つけてもらえなかったらどうしよう)
一生山でこうしてひとりぼっちで、ときどき火に入るお馬鹿な虫さんを食べながら暮らすのだろうか。
(虫は捕まえられるはず。水は魔法陣で生成できる。小さい鳥とか絞められないかな……)
意外と、なんとかなるだろうか。
そんなことを考えながら魔法陣を描いていると、不意に誰かに背後から抱きすくめられた。
(――! 心臓、止まるかと思った)
が、胸に手を当てればきちんとバクバク動いていたので大丈夫だった。
聞き慣れた低い声が、耳に注がれる。
「……見つけた。心配したぞ、姫」
「……殿、下」
エリエノールは後ろを振り返った。エリエノールを抱きしめているのは、サイードだ。
(なんか、ほっとしちゃった)
大きな温かい体で包まれて、不覚にも安心してしまった。サイードに触られても全く恐怖感や嫌悪感を覚えなかったのは、これが初めてかもしれない。
(離れないといけないのに、できない)
絡まれたらすぐに拒否するべきだと先程は思っていたのに、今は抵抗しようという気が湧かなかった。
ここには人目があるわけではないし、これは普段ちょっかいを出してくるのとは違って心配から来たらしい抱擁だからだろうか。
この腕を押し退けようとすることは、できなかった。
(綺麗だなぁ……)
暗い中焚き火に照らされたサイードの顔はやはり整っていて美しく、明るいオレンジ色の瞳は闇の中でいっそう輝いて見えた。
別に恋などしていないが、数多の女子生徒が彼に夢中なのも分からなくはない。だって彼は顔は素晴らしく良いのだから。
「君がそんなに僕を見つめるのは珍しいな。なんだ、寂しかったか?」
「別に寂しくなどありません。ひとりには慣れています」
(本当に、寂しいなんて思ってないもん)
サイードを見ていたのは突然の登場に驚いたのと、他に見るものがないからだ。ぴしゃりと無表情で答えたエリエノールを見て、サイードが微笑む。
素っ気ない返事をすれば不機嫌になるのが常のはずだが、今は少し違うらしい。
「そうか。君がいつも通りで安心した。……本当に、心配だった」
サイードが、ぎゅっと抱きしめる力を強めた。本当に心配していたようで、声色もいつもより柔らかい。
「殿下は、何故こちらにいらっしゃったのですか?」
王太子ともあろう彼が、エリエノールなんかを探すために直々に来るなんて何か変だ。尋ねると、彼は少し困ったように小声で答えた。
「抜け出してきたんだ」
「……はい?」
「君が心配だから、勝手に探しにきた」
(尊い身の上のお方がいったい何をやっているんだ)
――そう思ったが、ここでエリエノールがサイードを責めるのは違うだろう。彼はエリエノールのことを思って探しにきてくれたのだから、ここは素直に感謝しておくことにした。