13. 金色の髪に不真面目で不誠実な口付けを 「照れているのか?」「いいえ。全く」
「君が怪我をしたら、ここでは心配する者がいると思うぞ。薬なんていくらでもやれる」
「神の血をひくお姫様だからですか?」
「それもあるが、それだけではない」
(ん……?)
サイードがそう言うのを聞いた直後、髪を軽く引かれるような感覚がした。
(なんで――あ)
サイードを見ると、エリエノールの淡い金色の髪を指で掬っている。
(今日もですか。よく飽きないですね)
その行動に、一瞬呆れた。
授業が始まってから二週間ほどが経っているから、サイードと隣の席で一緒の授業はすでにいくつも受けている。そしてサイードは授業が一緒だと毎回何かしら、エリエノールに絡んでくるのだ。
どうでもいいことでこそこそ話しかけてきたり、髪や腕、肩や背中に触れてきたり、くだらない質問を書いた紙を寄越して答えを書かせたり、教科書やノートに落書きしてきたりと、エリエノールが授業に集中するのをたびたび妨害してくる。本当、いい迷惑だ。
そうしているときも不機嫌そうなことが多いが、たまに優越感に浸っているような笑みも見せるサイード。
意図がはっきりと分からないその行動は怖いが、あまりにもしつこいので少し慣れてきてしまっているところもある。
また、エリエノールなりに一応考えてみて、サイードのその行動は暇潰しだと解釈した。
(わたくしは王太子殿下の暇潰しに使われる、欠陥品のおもちゃ)
サイードは何度も自負するように実際に優秀であるから、授業なんてつまらないのだろうと思ったのだ。
そうしているときにも不機嫌そうなことが多いのは、コミュニケーション能力がないエリエノールの反応がつまらないからだと思っていた。
隣にいるのがエリエノールだから、仕方なくそれで遊んでいるのだ。
いま触れられているのも、その暇潰し。そう一瞬思った。だからまたかと呆れたのだが、すぐにサイードの表情がいつもと何か違うことに気づく。
(……笑ってる)
サイードは、微笑んでいた。優越感に浸っているというよりも慈しむような優しい微笑みで、授業初日にエリエノールを泣かせた後の表情に近い気がする。
そんな笑みを浮かべながらサイードは、静かにエリエノールの髪の毛先を指に絡めて弄んでいた。
(なんか、そわそわしちゃうんだけど……)
人に髪を触られた経験はあまりない。金色の髪がサイードの指に巻きつけられて絡み、離れてはまた絡む。
(なんでこんな触ってくるの? 何か変かな。艶がなくて女らしくない髪だとか思われてる? 毛先傷んでるなとか? 匂い変だったりする? ちゃんとお風呂は入ってるし、洗ってるけど……)
無言で髪に触られている時間がけっこう長いので、いろいろと心配になってきてしまう。
「……他人の髪の毛に触って、何か面白いのですか?」
しびれを切らして、エリエノールは珍しく自分からサイードに話しかけた。サイードは髪に触れるのをやめずに答える。
「今は面白さを求めているのではない。ただ、君に触れたいと思ったから触れたのだ」
「はぁ……」
エリエノールは他人に触りたいと思ったことはない。だからサイードのその言葉を聞いてもよく分からなかった。
人の心のことは、よく分からないことばかりだ。引きこもって本を読んでいただけでは、人の心までは学べなかった。
久しぶりに外に出てまともに人と関わり始めたエリエノールが驚いたのは、人の心を理解することの難しさ。分からないと思ってばかりで、そんな自分が嫌になることもある。
「……姫」
「はい」
「……何でもない」
(だったら何故呼んだのですか)
――なんて思ったが、そんなことは次の瞬間にはどうでもよくなっていた。
(え――?)
金色の髪の先にあるのは、唇。サイードが目を瞑り、エリエノールの髪に口付けたのだ。
(な、な、な、なんっで!? 髪、に! なんでちゅうしてるの?!)
ぱちりと目を開いたサイードがオレンジ色の瞳で、驚いて目を丸くしたエリエノールの碧色の瞳を捉えた。したり顔で、小声で囁くように問いかけてくる。
「何をそんなに驚いている?」
「いや、あの……授業中ですよ?」
「誰も見てないだろう?」
「そうだとしても、その……、わたくしの髪なんかに殿下の唇を付けるのは、恐れ多いというか、衛生的にどうかと……?」
ぐだぐだな言い訳をしたが、つまりエリエノールはいま困惑している。授業中に、髪にとはいえ口付けするなんて信じられなかった。
(なんでそんな平然としていられるんですか!?)
やはり、もてるお方はこんなことには慣れっこなのだろうか。髪にキスなんて朝飯前なのだろうか。こんなこと不真面目だ。
(小声でこそこそ話してると、なんかいかがわしいことしてるみたい……)
実際授業中に相応しくない行為をしているわけだが、こそこそしていることでより破廉恥に感じた。
「恋人とかは普通に髪にもキスするぞ。知らないのか?」
(恋物語だって読むから、それくらいは知ってるもん!)
からかって馬鹿にするのも大概にして欲しい。
「わたくしと殿下は恋人ではありませんし、殿下にはレティシア様がいらっしゃるではありませんか」
サイードの婚約者はレティシアだ。エリエノールとサイードは恋人ではない。婚約者がいるのに、髪にとはいえ他の人の体の一部に口付けるなんて不誠実ではないか。
挨拶でする手への口付けなどとは違うだろう。こんなことをするのは変だ。
(キスって、もっと特別なものでしょ? 好きな子とかにするものでしょ?)
エリエノールにとっては、口付けは基本的には恋愛関係にある者が行うものという認識だ。
仲が良い家族とかだと親と子どもで口付けたりもするのだろうが、ランシアン家は――少なくともエリエノールに対しては――そういうことはなかった。
恋愛とか家族愛とか、そういう愛がある人たちの間で交わされるのが口付けだと思っている。
「何だ、照れているのか?」
「いいえ。全く」
(ただ混乱しているだけです)
からかうように言ったサイードに、エリエノールは素気なく返した。サイードに触れられている自分の髪を引っ張ると、彼の手からするりと髪が離れる。
「君は可愛げがないな」
「そうですね。わたくしもそう思います」
自分に愛想がないことは重々承知している。エリエノールを可愛いなんて思う人が少数派であることも、ちゃんと知っている。
サイードは、今日はもう触ってはこなかった。ふたりで会話をしている間に他のペアも次々に調薬を終わらせていき、レポートの課題を出されて今日の魔法薬基礎の授業は終わった。
(あれ……?)
廊下を歩いていると、なんだか嫌な視線がそこら中から注がれるのを感じた。その視線を気にしながら、ひとり廊下を歩き続ける。
『悪役令嬢レティシアは取り巻きと一緒に、エリエノールを虐める』。ミクの言ったその言葉を覚えていないわけではなかったが、今のところその言葉を実感することはなかった。虐めなんて何にもなかったと思っていたからだ。
(殿下は変だけど、学校生活はまあまあ楽しい)
エリエノールが虐めの存在に気づかされることになってしまったのはもう少し先――四月が終わり、五月になってからのことである。