01. 出会って数十秒後、頭上には剣 (今こそ、空気になりたい)
ヴェールのせいで霞む視界に、キラリと光るものが見えた。陽の光を反射した剣身がこちらに向けられる。
剣の切っ先が頭に向けられたかと思うと、視界がぱっと明るくなった。
ふぁさりと地面に落ちたヴェールがそよそよと風に飛ばされていくのを視界の端で捉えながら、乱れた淡い金色の髪を慌てて手で押さえる。
この展開にはかなり驚いたのだがとりあえず、頭皮は削がれていないので良かったとしよう。少しでも彼の手元が狂っていたら危ないところだった。
(まさか、出会って数十秒で剣を向けられるとは思わなかったなぁ……)
これまでの人生で、刃物で体を切られたことは一度や二度ではない。けれど何度切られようとやはり慣れることはなく、その銀色を見るとエリエノールはいつも怖くなるのだ。
今度こそ本当に切られやしないかと怯えながら、碧色の瞳で目の前の青年を見据える。
高貴な身分らしいこの青年様は、それはそれは顔が良い。
すっきりとした輪郭に、通った鼻筋。きりりとした眉に、形の良い唇。艶のある髪はシルバーグレーで、長い睫毛に縁取られた瞳は明るいオレンジ色だ。
たいそう美しい顔に氷のような冷たい表情を浮かべた彼は、高い背で威圧的にこちらを見下ろしている。
「ふぅん、これが神の最大の祝福を受けた子の姿か。『陰鬱』な雰囲気だし『祝福のかけらもなさそう』だが……まあ調べれば分かることだな。父上の妃になるには『貧相すぎる』があれは今のところただの設定だから別に――」
まさか、初対面でこんなにもすらすらと淀みなく毒づかれるとは思っていなかった。
悪口には慣れているエリエノールでも、さすがにちょっと心にダメージを負う。
貧相な体型は、けっこう気にしていることなのだ。会ったばかりの女性の体型についてこんなふうに言及するなんて、配慮がないこと。
いきなり剣を向けてきた上に綺麗な顔に似合わない毒を吐いた彼は、容姿以外の第一印象は最悪と言っても過言ではなかった。
ちなみにこの第一印象最悪の彼、この国の王太子である。
こうして、元引きこもり候爵令嬢――エリエノール・ランシアンと、大国の眉目秀麗王太子――サイード・リュウールシエルの関係は、なんとも微妙な感じで幕を上げたのだった。
ここは人々がみんな魔力を持ち、魔法を使えることが当たり前の世界。
そんな世界に生まれたひとりの女の子は、名をエリエノール・ランシアンという。
サージュスルス王国のランシアン侯爵家の養女だったエリエノールは、とある奇病にかかったからと外出を禁じられ、約八年間屋敷に引きこもっていた。
そして今朝、義姉に地下室に閉じ込められていたところ、突然隣国――リュウールシエル王国から迎えの人がやってきて、あれよあれよとこちらに連れてこられたのだ。
日が暮れた現在、エリエノールは信じられないものを前に目を丸くしている。
(食事が、並んでる……)
王城の豪華絢爛な広間のテーブルに並べられているのは、数々の料理たちだ。
色とりどりの料理はキラキラと輝かんばかりで、白い湯気とともに美味しそうな匂いを漂わせている。
こんなふうにまともな食べ物が目の前にあるのは、とても久しぶりのことだった。
現在十五歳であるエリエノールは七歳のときに奇病と診断されて引きこもり始め、十歳の頃から義姉に虐げられ始めた。
養母の侯爵夫人が病に倒れ、領地に療養に行ってしまったことがきっかけだ。
義姉には会うたびに暴力を振るわれ嫌がらせをされたが、養父の侯爵は幼い頃からずっとエリエノールには無関心。見て見ぬふりをしていた。
信頼できた人間は、養母ただひとり。けれどもその養母も今はこの世にいない。
五年間一度も面会を許されぬまま、二ヶ月前に亡くなってしまったのだ。
唯一信頼していた養母を失ったエリエノールは悲嘆に暮れ、誰からも愛されることなく生涯を終えるのかと考えたりしながら、この数日間は食事を抜かれて地下室の虫を貪って生きていた。
そんなところに隣国からの迎えがやってきたことは、もちろん衝撃的ではあったのだが、心が折れそうだったエリエノールにとっては一筋の希望の光となった。
(城に来て数分で剣向けられて、神殿入って数分で触ったら死ぬかもしれないものに触らせられたけど)
つまりこの国に来た日にすでに二回危うく死ぬような目に遭っているのだが、とにかく生き延びられているので良しとしようと思う。
今まで散々死にかけたくせにまだ生きているので、命に感謝しなければならない。
さて、今のエリエノールはただ何もせず、ぼんやり考え事をしながら椅子に座っている。
みんなは和気藹々と会話しながら食事をしているので、その姿はおそらく異質だと言えるだろう。
けれどもエリエノールとて、理由なくこんな状態になっているわけではない。
(食べられ、ない)
今までの生活とあまりにも違いすぎるものを受け入れるのは、なかなか勇気がいることなのだ。
まともな食事をとることを何年も許されてこなかったせいで、そんなことをしたら咎められてしまう気がする。
何かおかしなことをしてしまったら、義姉のように誰かが殴ってくるのではないかと疑ってしまう。
ゆえに食事に恐怖感を覚え、フォークを持てずにいる。何もできずにいる。
(……とりあえず、空気と化そう)
意気地なしのエリエノールはフォークに指一本すら触れることができないまま、沈黙を続けた。
みんなの話し声が、ぼんやりと耳に入ってくる。
「――サイード兄様。何故他の令嬢がこの場にいながらレティシア姉様はいらっしゃらないのですか?」
「レティシアは城に滞在しているわけではないだろう? このふたりはそれぞれ〝神の慈悲を頂く乙女〟と〝神の血をひくお姫様〟だからこの場にいるのだ」
第二王子テディは、王太子サイードの答えを聞いて頬を膨らませた。
まだ幼さの残るオレンジ色の瞳が、こちらをキッと睨みつけてくる。
それに少し怯みながら、先程のことを思い出した。
(神の血、ねぇ……)
この世界では神の祝福を受けた者がいる国は栄えると信じられていて、それを裏付けるような歴史がこの国にはある。
神殿で聞いた話によれば、エリエノールの体には神の血が流れている――〝神の血をひくお姫様〟――らしい。
それゆえ国のさらなる繁栄のために、今日からリュウールシエル王室に囲われることとなったのだ――が、正直まだあんまりぴんときていない。
自分がそんな凄い存在だなんておかしいと思う。
「レティシア姉様が嫉妬なさっても知りませんからね」
「はいはい。お前は本当にレティシアのことばっかりだな」
「兄様のお嫁さんになる人ですから、気にかけるのは当然です」
「ところで、レティシアってどなたですかぁ?」
ふたりの王子の会話に質問を飛ばしたのは、〝神の慈悲を頂く乙女〟のミクだ。
彼女は黒髪黒眼の異世界者の少女で、ひと月前の三月にこの国の神殿に出現した。〝日本〟という国からこちらに来たらしい。
神と会話する能力を持ち、〝神の血をひくお姫様〟ことエリエノールの発見に貢献した人だ。
これは単なる気のせいかもしれないが、今の彼女は口元は笑っているが目は笑っていない気がする。
「レティシアは僕の婚約者だ。ルクヴルール公爵家の長女で、僕らと同い年。学園に入学したらきっと会えるだろう」
「うわぁ、そうなんですね。楽しみですー」
彼女の声色は溌剌としていたが、やはり目には暗いものを宿しているようだった。
明るく振る舞おうとしているが何か闇を抱えているような、なんとなく不穏なその様子に違和感を覚える。
レティシアという人に恨みでもあるのだろうかと首を傾げたが、異世界から来たばかりの彼女がこの国の公爵令嬢を恨む理由など、全く思い当たらなかった。
(うーん……)
その理由を考えながらちらりと視線をテーブルに向けると、美味しそうな食事が目に入った。
牛肉を焼いたもの、野菜を炒めたもの、温かそうなスープ、柔らかそうなパン――……。
こんなもの、とてもとてもエリエノールが食べて良いものとは思えない。
色も匂いも変じゃなく、砂利も入っていなそうで、腐ってもなさそうな食事をとることが許されているなんて、現実感がなくて信じられなかった。
もしもこれが美味しい食べ物の皮を被った罠で、実は毒入りでしたとかならすごく納得できる。
「――君は、全然食べる気配がないね。何か気に入らないのか?」
サイードにそう尋ねられ、思わずびくりと肩を震わせた。ずっと何も口にしていないので、さすがにそろそろ怪しまれたらしい。
みんなが会話をやめてこちらを見てきて、いくつもの視線が刺さり狼狽えた。
(今こそ、空気になりたい)
が、なれないのは百も承知だ。現実はいつも非情なのだ。
「いえ。そうではありません。その……ただ……こういった食事は、慣れていないのです」
「慣れていないとは? 君は養女と言えど侯爵家で育ったのだろう? そこでは何を食べていた?」
「えっ……と……」
質問攻めにされ、言葉に詰まってしまう。エリエノールが、今まで何を食べていたかと言えば。
(ここ三ヶ月、主食は虫でした……?)
思いついたその答えに、心の中で首を振る。事実だが、それを口にしたらさすがにどん引きされるだろう。
エリエノールは虫を食べ慣れているし昆虫食にもなかなか興味を引かれているが、昆虫食は世間一般にはまだ広まっていない。
義姉が冬期休暇の際に何処かの町で流行っていたからとエリエノールに買ってきたが、世の多くの人にとってはまだまだ下手物扱いであり、おそらくここにいる高貴な方々のお気に召す話ではないことは心得ている。
引きこもっていたとはいえ、それくらいの教養はある。
(じゃあ、ここ一週間は食事を貰えなかったので、地下室の虫を食べていました……? あ、虫は言わない方が良いんだった)
虫以前に一週間食事を貰えなかったと言った時点で虐待疑惑で気まずい感じになりそうだから、この答えも駄目だろう。
エリエノールが下手なことを言ったら、場の空気はきっと凍りついてしまう。
すでに微妙な空気にはなってしまっているのだが、自分なんかの発言で先程まで和やかだった空気をこれ以上悪くしたくなかった。
(どうしよう……)
「どうしたんだ?」
答えられずに黙っていると、サイードが訝しげな顔をした。
まだみんなの目がこちらを見ているので何か答えないといけない場面なのだろうとは察したが、嘘はつきたくない。
どうすれば良いのだろうかと、無難な答えを必死に考えた。きっと頭がすごい勢いで糖分を消費しているだろう。
しばらくの後エリエノールは、勇気を出してゆっくりと口を開いた。
「……わたくしは、サージュスルス王国にいた頃は、引きこもりでしたから。食事ももちろんひとりでしたので、このように大勢が揃って食事をしている場が、珍しかったのです。今までと比べると、とても信じられなくて……固まって、いました」
そう答えると周りからやや哀れがる目で見られているようにも感じたが、これが嘘にならない最適解のはずだ。
虫も虐待も入っていないからこれで良かったのだと、自分に言い聞かせる。
(会話って疲れる……)
こんな答えを考えて口にするだけで、ものすごく疲れてしまった。人の反応や気持ちを考えて言葉にするのは大変だ。
ここ数年はろくに人と会話してこなかったからか、そういう能力が著しく劣っていた。
「……では、その……いただきますね」
このままみんなに注目されているのではなんとなく居心地が悪いので、視線を自分から剥がさせるために、なけなしの勇気を出してとうとう食事を口にすることを決めた。
(ゆっくり食べないと、胃が痛くなっちゃいそう)
美味しそうな食事をとろうとしながら考えるのが胃痛のことだなんて、やはり自分はネガティブ思考なのだなと思う。
「ああ。君は小柄すぎるから、もっと食べたほうが良い」
「……善処します」
サイードからの言葉に小さく返答しながら、どれから食べればいいものかと、しばしざっと食事を眺めることにした。
牛肉は重すぎて到底無理なので真っ先に除外、もっと胃にかかる負担が小さいものがいい。
(……これ、かな)
選んだのはミルク色のスープだ。
とろりとしたスープの中に、人参やほうれん草や豆などが入っている。
意を決して震える手でそれをスプーンで掬い、口に運んだ。
そして、にわかに衝撃を受けた。
(……おいしい)
ミルクのほのかな甘みに、ただしょっぱいだけではない深みのある味わいのスープ。
それぞれの具材が異なる食感を生み出し、噛むと旨味が溢れ出してくる。
食べ物を心から美味しいと思えたのは、何年ぶりのことだろう。ただスープを口にしただけなのに、感動してつい泣きそうになった。
浮かんだ涙を乾かそうと、ぱちぱちとたくさん瞬きをする。
ごくりと最初のひとくちを飲み込み、そうっと慎重に、もうひとくちのスープを掬う。ゆっくりと口に運んで、具材を咀嚼する。
(やっぱり、美味しい)
「美味いか?」
「はい」
スープと一切れのパンくらいなら、頑張れば食べられそうだ。柔らかな白いパンをちぎって口に入れると、芳醇な小麦の香りに満たされる。
(パンも、おいしい)
先程まで立ち込めていた微妙な空気は、いつの間にか何処かに消え去った。
エリエノールはときどき会話にぎこちなく入りながら、城での初めての夕食を終えた。
人と一緒に食事をとったのも、食事を楽しいと思えたのも、とても久しぶりのことだった。
――これは元引きこもりの、昆虫食を嗜む侯爵令嬢エリエノールが、隣国でいろんな人と関わることで初めての感情を知っていき、ゆっくりと成長していく物語。