月の丘
個性は誰かが潰していいものではない。
どうか、あなたの兎を殺してしまわぬように。
遙か未来の話だ。
地球を使い捨てにしたニンゲンが、月に移住してもう何億と時が経った。
ここでのポテンシャルは幻想の兎、ツキウサギをいくら美しく描けるかにあった。
美しくツキウサギを書けるニンゲンは、いくら道徳を踏みにじっていようと、倫理に欠けていようと評価され、賞賛され、本人の人格など大衆によって安易に踏みつぶされてしまった。
皮肉なものだ。美しさに答えなんてないというのに。
どんなツキウサギも、本人が賢明に描いたものに優劣をつける権利なんて、誰ももっていないというのに、ニンゲンは流行と見てくれの出来で善し悪しを決めた。
「………」
黒い空の下で、小さな少女が白いカンバスにツキウサギを描いていた。
星の砂を砕いた絵の具をいっぱいに広げ、伸び伸びと白い兎を描いていた。
「あれはツキウサギじゃないよ」
「白いツキウサギなんていないよ」
「そもそもウサギを描いてるの? 変な耳、変な顔」
ニンゲン達は、少女の見えない場所で笑っていた。
ううん、ニンゲン達が見えていないと思っているだけ。
言わないで、少女にはちゃんと聞こえているんだ。
でも、筆を握ったまま泣いている少女に、ニンゲンは気づかないんだ。
「………」
ツキウサギは幻想の兎。実在しないのだから、自由に描いていいものなんだ。
だからお願い、カンバスを黒く染めないで。君が否定してしまえば、白いツキウサギは死んでしまうから。
「ねえ、ステラ、どうして泣いているの?」
月の丘で1番ツキウサギを描くのが上手い友人、ルナが息を切らして駆けてきた。
ステラは慌ててカンバスを抱きしめ「なんでもない、なんでもないのよルナ」と困ったように微笑んだ。
「ステラ、何か悲しいことがあったの? 僕に何かできることがあったら――」
「ううん。大丈夫よ。ありがとうルナ」
月の丘から、ルナを呼ぶ声がする。私にも、俺にもツキウサギを描いてくれと寄るニンゲン達の声だ。
ルナは気づかない。あの大衆が、ステラのカンバスを黒く染めさせたことを知らない。ステラが「ルナ、呼ばれているよ」と言うと、ルナは首を横に振った。
「いいんだ。あの人達は、ほんとうのツキウサギを知らないから」
「ほんとうの、ツキウサギ?」
「ツキウサギは1人1人、違うんだ。どんなツキウサギがいたっていいのに、あの人達は似た様なツキウサギしか好きにならない」
「でも、認められるってすごいことよ。ルナが描くツキウサギ、私も大好き」
「ほんとう!? 嬉しいな……」
ステラは心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
いつも隣で一緒にツキウサギを描いていた。ルナのツキウサギは大好きだ。
透き通るような青に、宇宙の中で輝くアンタレスみたいな赤い瞳……でも今は、ルナの絵を見ると苦しくて仕方がなくなってしまった。
「ねぇ、ステラ――」
「触らないで!!!」
ルナが伸ばした手を、ステラは払いのけた。やってしまったという深紅の瞳と、驚愕で彩られた瑠璃色の瞳が交差して、紫色の緊迫感が世界を支配する。
ステラは逃げ出した。時が止まったルナを放って、森の深くへ走っていった。
☆。.:*・゜☆。.:*・゜
あの日からルナは、ツキウサギが描けなくなった。
少年にとって、大衆などどうでもよかった。
カンバスに描いたツキウサギを見たステラが「素敵だね」と笑ってくれるのが嬉しくて、ずっとツキウサギを描いていた。
ニンゲン達はルナのツキウサギを評価していただけだから、やがてツキウサギを描けなくなったルナに興味を無くし、四方八方に霧散していった。
ルナは独りぼっちになった。月の丘、ずっと向こうで茶色に濁った地球が回っている。
「僕も使い捨てだったのかな。あの地球と同じで」
ステラに会いたかった。会って、話がしたかった。
また隣で、ツキウサギが描きたかった。
「………」
「君は――?」
ルナは何度も目を擦った。丘の下、ガラス細工の様に青く透き通ったツキウサギが、しきりに鼻をひくつかせ、こちらをじっとうかがっていた。
「ツキウサギ!? 嘘だ!? 僕のツキウサギ!?」
幻想のウサギだ。実在するはずがない。逃げるウサギを、ルナは追いかけた。
街中を、よその家を、公園を、赤い瞳のツキウサギは走り回る。とても追いつかない。息を切らしながら、ルナはウサギを追いかけた。
最期に、ツキウサギはステラが走っていった森で立ち止まった。
もう逃げる気はないらしい。ルナがそっとツキウサギを抱くと、兎は前足で「入れ」とルナに訴えた。
警戒しながら、ルナは薄暗い森に迷い込んでいく。木の葉が風に嬲られ、まるで雨が降っているようだった。
時折聞こえる梟の鳴き声に怯えながら、ルナは奥へ奥へと進んでいった。
「………」
誰かに伐られたのだろう、太い切り株の上で、1匹のウサギが震えていた。
「………ツキウサギ?」
小さくて、丸い兎。絵の具をかけられてしまったのか、まだらに黒く染められていた。
「………」
「よしよし………大丈夫………怖かったね」
腕の中で、汚れたツキウサギが震えている。どうすればこの黒を洗い流せるだろう。悩んだルナはガラス細工のツキウサギと共に水辺を探すことにした。
「お母さんから聞いたことがある。月の水辺では青く光る竹が生えるって。場所はわからないけど、昔見た地図では確かにあった。君、わかるかい?」
「………」
耳の手入れをしていたルナのツキウサギは、彼の言葉がわかるのか先頭をぴょんこと跳んではルナが歩いてくるのを待っていた。
「よし、行こうか」
子兎を抱きながら、ルナは森を歩いた。誰もいないのに、誰かがこちらを観察している気がして、気味が悪かった。
数十分、或いは数時間歩いたかもしれない。時間の感覚も忘れ、濁った地球が覗く月の地を歩き続けた少年ルナは、とうとう青白く光る竹林にたどり着いた。
「森の中で竹が生えているのは、なんだか不思議だね。ほら見てご覧」
腕の中のツキウサギに囁くと、小さなツキウサギは垂れた耳を僅かに動かして、輝く青竹を凝視していた。
「………!」
「わっ。ど、どうしたの!?」
突然、今まで大人しかったツキウサギが暴れはじめ、ルナは慌てて汚れたツキウサギを地面に降ろした。
「………!」
真っ直ぐ竹林へと走るツキウサギを追いかけると、まるでサファイアを溶かした様な青い湖が眼前に広がった。
向かいの水辺で、蹲っている少女人がいた。ルナの腕から逃げた小さなツキウサギは少女の隣で彼女の白いワンピースを噛んでいた。
やがて、少女が隣にいる子兎に気づいた。ルナは顔を上げた少女に驚いたが、次の瞬間、少女が小さなツキウサギの首を絞め上げたではないか。
「――なんで、あなたがここにいるの? 捨ててきたのに」
「………」
駄目だ、このままでは子兎が死んでしまう。
少女に、ステラに殺されてしまう。
ルナは少女の名前を叫んだ。
彼女はどんな顔をしていたのだろう。
怒っているような、泣いているような顔だったかもしれない。
(間に合え、お願いだ、間に合ってくれ――!)
あの兎を、ステラが殺してはいけない。強い焦りと寂寥感を飲み込んで、ルナはツキウサギを殺めようとするステラを兎から引きはがした。
初めて触れたステラの身体は軽く、腕は今にも折れてしまいそうな程細かった。
「誰? 止めないで。白いツキウサギなんていないんだから、殺さなきゃ」
立ち上がるステラの細い腕をルナは掴んだ。
「ああ、ステラ、そんなこと言わないで。白いツキウサギがいたっていいんだ」
「嘘! みんな白いツキウサギなんていないって! こんなのウサギなんかじゃないって!」
「――!」
ルナは知らなかった。大切な友人が、ニンゲン達の言葉に傷ついていたことを。
「――ステラ、ごめん、僕は、君の気持ちに気づけなかった」
「嫌だ! 来ないで! 触らないで!!! 嫌い!! ルナなんて大っ嫌い!! ルナなんて――」
腕の中で、子兎が暴れていた。ルナはステラを強く、強く抱きしめた。
「――ねえ、どうしてルナが泣いているの?」
「――ずっと隣にいたのに、僕は君の気持ちが見えなくなっていた。周りが僕のツキウサギを褒めてくれた。でも、ほんとうに見てもらいたい人を、大切にできていなかったんだ」
「ルナ……」
「どんなツキウサギがいたっていいんだよ、ステラ。例え誰かが認めてくれなくったって、ツキウサギじゃないって言われたって、だって、君のツキウサギは、君にしか描けないんだ」
「………ほんとうは、ルナが好き。でも、私は嫌われて、ルナは認められる。時間が経てば経つ程、ルナがどこか遠くに行ってしまう気がして、怖かったの」
二人はしばらくの間、互いに涙を流しながら抱き合っていた。やがてゆっくりと、結び目が解ける様に、2人は腕を解いた。
「ツキウサギを洗いに来たんだ。きっと、ステラのなんだろう?」
ガラスでできた青いツキウサギに寄り添っていた汚れたウサギを、ルナは抱きしめた。
「そう、私のツキウサギ。汚してしまった、大好きなツキウサギ――」
ステラが小さなツキウサギに手を伸ばすと、ウサギは一瞬怯えた様に身体をすくませたが、敵意が無いことを感じたのだろう、震えながらも、大人しくステラの腕に収まった。
「ごめんね。ほんとうは大好きなの。白くて小さくて、もこもこしてて、垂れた耳のあなたが、私は大好きなの」
ステラが優しく抱きしめると、ツキウサギはどこか嬉しそうに鼻をひくひくと動かしていた。
今日において、ツキウサギを描く文化は衰退している。
何故なら、たくさんのツキウサギが発見され、多様なツキウサギが受け入れられるようになったからだ。
より美しいツキウサギを描くために評価を求める者も受容され、あるがままにツキウサギを描くこともまた需要された。
月の丘に住む読者諸君は、ニンゲン達など気にせず、今後とも自由にツキウサギを描いてよいのだ。