何故、死にたいや生きる意味について疑問に思うのかの、論理の飛躍した考察
これは、作者が突発的な思考で書いた、余りに一般の常識とは離れている考察なのだが、至って真面目に考えているので、それを踏まえて読んで欲しい。
何故、死にたいや生きる意味を疑問に思うのかは、生物の生存本能と、生物全体としての生存本能が矛盾を起こしているからと考えられる。
生物全体としての生存本能とは何か?
それは、生物は先祖をたどると数匹の単細胞生物に収束すると思われ、その単細胞生物が寿命よりも長く生きるために、自分に似た生物を生み、それが環境に対して生き残る為に別々の変化を遂げた。つまりは、現在生きている生物は数匹の単細胞生物が生き残る為につくったクローンで、その環境でどの生物が生きることが出来るのかの実験体とも言える。
つまり生物全体としての生存本能とは、始まりの単細胞生物が存命し続けるための生存本能と言える。そして、オリジナルの生存本能は、脈々とクローンへと受け継がれている。
何故、この2つが矛盾したのか?
それは大きく2つ理由があると、私は考える。
1つ目は、人類という種が余りに増加したためである。
生物全体が生き残る為には、様々な種があることで、1つの種が絶滅しても、他の種がいることで生き残るが、生物全体がその種に偏ると、その種が生き残られない環境になった時に生物全体としての命が危ぶまれるからである。
2つ目は、前に話した実験体としての機能がしていない為である。
実験体としての機能とは、その環境に対して生き残れるかということを、実験して、変化していく為、産まれてからある程度の時間、命の危機に陥らず、オリジナルの生存本能が奇跡的に生き残ったと判断して、その生物に対して、そのままにいきながらえて、他の実験体を殺さないようにと、命の危機に陥らせる為に、死ぬことを命じるからである。
この2つにより、オリジナルは、人類が生き残る事を否定し、オリジナルの考えは、クローンにも受け継がれ、自分が自分を生き残らせない事と、自分の生存本能が生き残る事の2つがせめぎあい、本題の死にたいや、生きる意味について疑問に思うことに繋がっていると私は愚考した。