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スーウェンは嵐の中にいた。黒い渦を逆さまに落ちていく。
風も音もない、暗いなにかが体を伝い通り過ぎていく。落ちているのだという直感。通り過ぎていくなにかを感じようと両手を開く。横から打ちつけられたように錐揉みになり緑色の暗闇に呑まれた。浮かぶような錯覚と困惑。水底のような暗闇。冷たい息苦しさ。瞼の裏側。夢という言葉が浮かび、穏やかに目を開く。
夢。スーウェンは朝の水色を感じながら目の前にある毎日を一つ一つ眺めた。ベッドの上から眺める洞の中はなに一つ変わらない。テーブルの上の本、水瓶の水。果物や、砂利。ただ、壁に背を預け眠る男は違った。火を呼び、洞を照らす。
スーウェンはどうやってベッドに入ったのか思い出せなかった。息が荒く、背中が震えている。暗い夢を見た、それだけは憶えている。
暗い夢の向こう、男に寄りかかって……それから?
男の顔に炎の揺らめきが映る。
目鼻立ちは整っている。ただ、それだけだ。スーウェンは自分のなにがこの男に惹かれているのかが不思議でならなかった。確かに不格好ではない。それにしてもなにかしろ思うところがあるのが自然だろう。目や口、耳や髪、特に小さくも大きくもない。髪は長いと言えば長いと言える。日の下では淡い茶、影の中では黒。よくみれば一筋白髪がある。ここが好きだと言えるような部分もなく、ここが嫌いだと断じるような部分もない。全体として柔和。妙な顔だ。中肉中背、筋骨隆々というわけでもなく貧弱でもない。全てがそれなりで、悪くない。
悪くない。気の迷いだろうか。長く独り身でいたせいで感覚が鈍っているのかもしれない。寂しさが目の前の男に狂ってしまったのだろうか。そうかもしれない。
スーウェンは思いながら口を歪めて首を横に振った。
目の前の誰かを求めることに罪はないはずだ。どうせここには誰もいない。それに、誰でもいいというわけでもない。シャジーチはよくしてくれている。ミハージィがいたからかもしれない。小さな娘の父親を奪い取りたいとは思わない。シャジーチは私のことを好きだったのだろうと思う。でなければこんな森の奥まで商売をしに来たりはしないだろう。私の作った皿や壺は高く売れるのだと言われても真相はわからない。果物の種も良い値で引き取ってくれる。布や家財は彼から買うしかない。もし、好意からの取引なら、今年からはなくなってしまうのかもしれない。
今年も来てくれるだろうか。テーブルの上の本を一瞥しシャジーチを思い浮かべる。
小太り髭のシャジーチ。いつも笑顔で小綺麗なシャジーチ。去年はどんな格好をしていだだろうか。使い古した巻き布くらいしか憶えていることはない。
ミハージィはどうしているだろうか。去年見たときは抱きかかえられるほど小さかった。母のいない娘。シャジーチの影に隠れてこちらを見ていた。木の根にひっかかってよく転んでいたのを思い出す。怪我をしても泣かない子だった。血を見ることを恐れない子供。好奇心の塊。でも、子供はみんなそうだ。そして、幼子はすぐに変わってしまう。どんな顔になっただろう。可愛らしい娘に育っただろうか。お転婆娘になっただろうか。
スーウェンは旅慣れて逞しくなったミハージィを思い描こうとしたがうまくいかなかった。子供がどんな風に大きくなるのかを見る機会が少なかったからだ。憶えているのは霞んでしまった家族の面影だけ。憎らしい男達の顔はどれも同じように醜悪で誰が誰だかわからない。人付き合いのない人生だったのだと改めて感じ、気分が沈む。
赤ん坊のように体を丸めて目を閉じる。重苦しい暗闇が体の中を漂っている。いつもそうだ。こうなるとなにも考えられない。目を閉じているだけで夢の中に呑まれているような気分になる。体から力が抜けて指先すら動かせない。動かせるのだけれど、動かせないと思える。呼吸も弱々しく、浅い呼吸を繰り返す。それらが自分の意思だと思えなくなる。
もうだめだ。
理由もなく涙が流れる。
それにはきっと理由があるのだけれど、私にはわからない。私の中の誰かが泣いている。嫌な事を思い出して泣いている。嫌な事を思い出すまいと泣いている。
一頻り涙を流して目を開ける。枕に染みこんだ涙をゆっくりと指でなぞる。
涙の乾くころ、スーウェンは体を起こして右手で額を撫でた。まだ黒い靄が頭の中に残っているような気がする。できるだけそれに触れないように洞を見渡す。
先ほどまでとなにも変わらない。
気怠さを噛み殺しながらテーブルに着く。男はまだ起きていない。あるいは、こちらから声を掛けるまで黙っているのか、今までに男から話しかけてくることはなかった。
履いた靴の調子を整える為に爪先で床を叩く。男が目を覚まして話しかけてくるかもしれない。スーウェンはそんなことを期待していた。
コッ。コッ。
間を開けてもう一度。
コッ。コッ。
スーウェンは腕を前に組み、顔を埋めるようにテーブルに伏せて男を見た。腕に隠れた唇を尖らせ、小さく鼻を鳴らす。
男はゆっくりと目を開く。左目、右目、両目で瞬き。左手の人差し指で目の縁を枠取るように脂を払った。視線はスーウェンの瞳に向いた。しかし、男は口を開かない。
「泣いてたのに」
スーウェンは男に聞こえないように呟いた。腕の中で、胸の中へ消えていくように。
「泣いていたのか」
男の言葉にスーウェンは息を呑んだ。聞こえていただろうか。
「涙の跡がある」
スーウェンは慌ててローブの袖で顔を拭った。言わなくてもわかっていたのだと思えるのは不思議と嬉しく感じられた。
「気が済んだのか」
男は心配する様子もなく会話を終わらせようとした。
スーウェンは会話を始めたかった。
「見て欲しいものがあるの」
スーウェンは言いながら立ち上がり男の傍へ寄り、男はゆっくりと立ち上がり尻の埃を叩いた。スーウェンは歩き、男はそれを追う。洞の外は眩しく、朝が始まっていた。