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 「なぜ?」色々な意味のある言葉だ。それ自体はただの質問で、なんの意味もない独り言にもなる。自分の中にある疑問に対する反抗のような、無力さの発露。

 男は考える。短い間の色々なことを思い返しながら。スーウェンの表情は同じだ。朝方倒れている自分を見つけたときのそれ。気丈さの仮面では隠しきれない不安が滲んでいる。ならばそれは自分に向けられたものなのだろう。

 スーウェンの「なぜ?」は一体なんだというのだ。「なぜ?」これも「なぜ?」だ。

「なぜ? なぜ、冷たい夜を歩くのか?」

 男の質問にスーウェンは小さく頷く。目を伏せ、下唇をそれとわからぬよう噛みながら。

「それは君が四精を操れるのと同じくらいわからんことさ」 (※四精 風水地火)

「なんで倒れるまで……?」

 倒れても死なないと思っているから。男は胸の中で答えた。現に男はここにいる。幾度となく、どれだけ倒れたのかすら憶えていないというのに。それは単に安らかに眠っているのと変わらないのだ。ずっと纏わり付いてくる痛みよりも、疲れ果て倒れる一瞬が心地よいというだけの話なのだ。倒れるまでではない、倒れるために歩くのだ。

「わからんさ」

 曖昧な言葉にスーウェンは再び俯いて黙った。

 自分にもわからないのか、説明しても理解されない諦めか、距離を取るための方便か。あるいは、もっと大きな何か、呆れかえるような運命に対する皮肉めいた嘲笑。考えれば考えるほど昔の自分を思い出し、昔の自分を慰めようとする自分を感じてしまう。それら全てが自分を映す鏡のようで辛い。何も知らないのに全てを知っているような気がしてしまう。踏み込んで欲しくない、踏み込んで欲しい、踏み込みたい。そのどれもが私と同じなら。考えながらスーウェンは大きく、ゆっくりと息を吸い、吐いた。

 違う。同じなら交わるまでもない。それは同じものなのだから。違うからこそ迷ってしまう。躊躇ってしまう。零れそうな涙が眼の奥に沈むまで瞼の裏を見る。息の止まる時間。

 沈黙だけが全ての答えのように思える。

 何も起こらない。何も壊れない。何も生まれない。

 静寂と共に時は過ぎ、ある時を境に死んでいく。石のようであればどれだけよかっただろう。永遠に静寂の中で佇んでいられるのに。共にあることしかできないとしても、共にあるという事実だけを抱いていられるだろう。怒りも悲しみも、なに苦しむこともなく。それとも、石たちは苦しむのだろうか。火や水や、風も。死んでいくのだろうか。

 だとしたら自分はなんと罪深いのだろう、スーウェンは涙を堪えられそうになかった。それらを望むように操りながらそれらが何かを感じるだろうかと考えることはなかった。沈んでいく意識が涙を纏いながら重くなっていく。

 嫌なら、助けてくれない。そんな考えに首を振る。逆らえないだけかもしれない。かつて囚われた自分のように。恐怖が、それでない何かだとしても。

 スーウェンは弱々しく肩で息をしていた。沈んだ意識に引き摺られるように体が重く、立ち上がることはおろか、指先を動かすほどにすら力が入らなかった。膝の間に頭を埋めながら、土の上に落ちる涙を見ている。瞬きをするほどに雫は落ち、土に染みては消えていく。それを見ていると不意に、倒れてしまいたいと思えた。全てを投げ出して土に呑まれていく、そんな自分を想像した。同時に、男がなぜ歩くのかがわかったような気がした。顔を上げて問いかける。

「もしかして、あなたも苦しいの?」

 スーウェンの言葉に男は目を見開いて視線を返す。それは見逃してしまうような小さな動揺。男は見逃した動揺に気付いて視線を戻す。躊躇いと迷いを虚空に見つめて口を開く。

「わからん」

 スーウェンは男のことが少しわかった気がした。男は苦しみがわからないのだ。それに耐えられるから、それを眺めていられるから。でも、苦しみを知らないなんてありえるだろうか。耐えられない感情を知らずに生きることなんてできるだろうか。囚われる以前ですら、空腹や怒り、悲しみや諦め、嫉妬や羨望、思い通りにならない思いがあった。いろいろな苦しさが苦しかった。

 そして、今も苦しい。

 もしも、本当に男が苦しみを知らないとして、男はどこから来たのだろう。なにもない道をただ歩いてきたのだろうか。それにしても苦しさくらいはあるだろう。倒れるほどに歩き、倒れてきたのだろうから。

 スーウェンは男の歩んできたであろう道を想像した。真っ白な道。光も影もなく、上り坂も下り坂もない。右も左もなく、躓くような石もない。ただただ歩き続けて倒れる日々。時折、狼に噛みつかれては目を覚ます。

「……誰に苦しいと言えるわけもない」

 考えるうち、スーウェンは辿り着いた答えを漏らす。

「私の苦しみを知らないから……わからないってこと?」

 男はスーウェンを横目で見てすぐに視線を戻した。

「君の苦しみは君にしかわからんさ。なにも俺に限ったことじゃない」

 男は遠い何かを見下すように鼻で笑って続ける。

「誰かの苦しみが理解できるなら、誰かを傷つけたりはしない」

 男は仰向けに倒れて空を見た。

 塔の上を埋める枝葉の隙間から見える青と白。霞がかった記憶のようだと男は思った。昔があるなら、思い出があるなら、スーウェンの苦しみが理解できただろうか。それとも、彼女を傷つけた者達のように理解できなかっただろうか。

 男はまた鼻で笑った。それがあろうがなかろうが、今の自分には理解できないのだと。

 スーウェンも男を真似て空を見た。青と白が輝くように瞬いて見える。しかし、男のように鼻で笑う気分にはなれなかった。

 それはただ美しく、届かぬ夢のように思えた。開け放たれた青。清んでいながら見通せぬ白、夕時には朱に染まり、折々に涙を流す。無縁の広漠。

 鳥のように飛びたい、包まれていたい。自由になりたい。

 この男は空のようなものなのかもしれない。苦しみが見えないからこそ惹かれる。そこにはなにもない。なにもないからこそ、知りたいと思うのかもしれない。

 男の持つ苦しみが、苦しみがないなら、そこから見える何かを知りたい。

「私はあなたを知りたい」

 スーウェンは確かめたかった。以前感じた痛みは本当に男のものだったのだろうか。何かの偶然でそう感じただけだったのかもしれない。狼の話は作り話で、触れられたくなかったのかもしれない。誰だって気安く触れられたくはない。

「なにもないさ」

 スーウェンは男の傍にゆっくりと歩み寄り、触れる程度にもたれた。疼くような痛みが全身を包んでいく。他の何も感じられない。体が強張り、動けなかった。それ以上近寄ることも、遠ざかることもできない。

 男は動かない。拒絶も、受け入れもしない。

「好きにすればいい。ただ、先に言っておく。俺は誰かを愛せる気がしない」

 男はスーウェンを嫌ってはいない。どちらかと問われれば好きな部類の人間だろう。賢く、美しい女。それだけで世の男なら満足できるはずだ。強情でも、気分屋でもない。家事もこなせる。四精を操る魔女であることを除けば拒む者はいないのではないか。

 ただ、それでも男は人を愛せる気などしないと思えた。この痛みだけで十分だった。誰かを助けることに躊躇いも面倒もない。しかし、それは上辺の関係で、自分の中では何も変わらない。やがて疲れて倒れるまでの暇つぶし。それ以上のものと思えない。

「そ、れで、も、いい」

 スーウェンは次第に強くなる痛みの中で弱々しく答える。



 鳥のように飛べなければ、墜ちるしかない。




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