7
7
「望んでいる間は」
そう答えてからどれだけの夜が過ぎただろうか。
代わり映えのしない日々が男を苛んでいる。朝方に交わす言葉やスーウェンの話に相槌を打っている間はまだしも、何ということもない時間は男にとって苦痛でしかなかった。どこか遠くへ歩きだすこともできず、ただ共にある痛みを感じているしかない。静かな時の中で感じる痛みはあと一息で形を持つのではないのかと思えるほど鮮明だ。洞の中は温かく、野宿ほど寒さを感じることもない。それ自体は快適で、誰もが望むのも無理はないと頷ける。ただ、痛みに変わるほどでない冷たさは男にとって居心地の良いものだった。歯を鳴らす震えや疲労、睡魔に襲われて倒れる瞬間は至福とすら思えた。
男は立ち上がり、洞の外へ出ようとした。
どこか遠くへ行こうとは思っていない。少なくともスーウェンがそれを望んでいないのはわかっていた。誰かを悲しませようだとか、裏切ってやろう、悩ませてやろうなどとは露ほどにも考えず、冷たい風の中を歩きたいという衝動だった。
敷かれた砂利が微かに鳴り、火の玉は勢いを強める。
スーウェンが不安げな顔で男を見ている。眠り浅く疲れた顔。
男にはそれも仕方ないと思えた。独りとは案外楽なものだ。誰に気遣うこともない、ただそこにあり咎められることもない。愛し合う者達は違うのだろう、愛に飢えている者は。スーウェンは孤独であることに怯えている。この一時、襤褸を着た男にすら安らぎを感じ、それを手放したくないと思っている。無理をしてでも笑おうとしている。彼女なりの安らぎを失いたくないのだ。失いたくないからこそ、怯え、疲れている。
「遠くには行かない」
男の言葉にスーウェンは目を伏せて応えた。力なく項垂れ、それが弱々しい承認のようでもあった。裏切りでないことは明白で、疑うことのできない無力さがそうさせた。
男は頷き、洞の縁を掴んで外へ出た。洞の中の暖かな空気と混ざり合うことのない冷気が夜の闇を走っている。体が冷たくなっていくのを感じながら男は星一つない夜を仰いだ。大きく息を吸い込む。冷たさが自分の中を空っぽにしてくれるような錯覚が心地よかった。
踏み出すごとに枝を踏み割る。どれほどか進まぬほどで何度も倒れ、仰向けで夜を眺める。痛みが冷たさに溶け込んで夜に吸い込まれていく。暗闇に体を打ちつけ、擦り剥いても、蹲り倒れることに抵抗はない。小さく呻き、痺れた体を抱きかかえる。
風が枝を揺らす。ざあざあという音だけが暗闇に渦巻いている。
青く澄んだ暗闇に眩い光が差す朝だった。塔の隙間を光芒が抜けていく様は神秘というほかない。光は闇、闇は光、それはすべて恩寵であると感じさせる太陽の魔力。
人生の始まりを感じさせるような、冷たさと温かさ、極性の両立。
光を浴びるにつれ、感動が夢のように消えていく。
夢が消えるにつれ、痛みが墨のように走り始める。
輪郭をなぞるように、あるいは、隙間を縫うように。すっと影のように馴染み、それでいて確かにそこにある。逃れることはできない。胸を大きく上下させ、男は浅い呼吸を繰り返す。頭の内側を締め付けるような痛みに顔を歪め、時折歯を食いしばりながら。
風の音がひゅうと鳴る。
光芒の斑を通り抜ける影。明暗の妙。
歩みは早く、されど音はなく。ただ流れる風だけがそれを知らせた。
男は大きく息を吸い込み、振り向く頃には表情を消した。
スーウェンはいつもそうだ。歩みを歩みと悟られぬよう歩く。それが何故なのかと尋ねたことはない。それは彼女なりに碌でもない理由だろう。それくらいの気持ちはわかる。
男はすっと上体を起こし、片膝を抱えてスーウェンを見上げた。光が彼女を取りあうように包み、表情はよく見えなかった。どんな気持ちでこんな男を探したのか、何故探すのかが理解できない。たとえ表情が見えても理解できないだろう、思いながら爪先の土を眺める。視界の黒点を振り払うように首を振り、再びスーウェンを見上げた。
スーウェンは歩み寄り、同じようにして座った。衣擦れの音が微かに聞こえ、寂しさに疲れた顔が見えた。遠くに来てしまったのだろうか、それとなく彼女を裏切ってしまっているのだろうか。行き倒れと変わらない自分が誰かの心象を心憂くなどとは考えたこともなかった。きっと彼女もそうだろう。そう思っていた。孤独とはそういうものなのだと。
吐く息がひゅうと鳴る。
乾いた胸を通り抜ける音。阿吽の行。
痛みは疼く、されど傷はなく。ただ流れる赤だけがそれを思わせる。
男は苦悶を覆い隠し、こちらに振り向くことはない。
男はいつもそうだ。痛みを痛みと悟られぬよう覆う。それが何故なのかと尋ねたことはない。それは男なりにわけのあることなのだろう。それくらいの気持ちは分かる。
それでも
「なぜ?」
問わずにはいられない。