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ミハージィは気を失うような激痛を感じながら昔を思い返していた。産婆が懸命に叫んでいる。なんと言っているのか分からない。涙が流れないことが不思議でしようがなく、涙が流れないことを不思議に思うのだという自分を見つけた。
あの日、あの路地裏で何が起こったのか。
あの人はぼうっとしていた。それがいけなかったとは思わない。でも、あの人はあんなふうに死ななくてもよかったんじゃないかと思わずにはいられない。
先に帰ってくれと言ったあの人を一人にするべきじゃなかった。たとえ私が担げなくても、たとえスーウェンが触れられなくても。
表情穏やかに背を預けて流れ出る血を押さえようともしない。
私は痛みを知らなかった、あの人はこんなふうに痛かったのかな。
血のついた指先が頬に触れるのがわかった。指先の硬さよりも滑るような血の痛み。
ひりひりと灼けるような。
それが熱なのか痛みなのかわからなかったけれど、きっとあのとき薄れていった感触はあの人そのものなんだと思う。あれは、きっと生きている温かさのようなもの。
あの人を象っていたなにかが消えていくのを掌に感じてた。
あの人がすまないと言った後、頬から離れた指を目で追ったのを憶えている。
指先よりも近く私を包む血が乾いていくのが悲しかった。
渇き
私は渇いていた。あの人がいなくなることに耐えられなかった。これからずっと、誰かに触れることも、触れられることもできないなんて。
思えばあの人は、そのためにすまないと言ったのかもしれない。
自分しかいないってわかっていた。他の誰も助けにはならない。少なくとも自分がいる間だけ私は救われてるってわかってた。
それを表に出さなかったのは思い上がりかもしれないと思っていたから?
それとも、私の独りよがりだったのかな。
そんなことを考えていたことを朧気に憶えている。白だったか黒だったかわからない時間があっという間に跳んでいった。目を覚ませば胸が落ち着かず、ただ抱いているそれがあなたの子だと言われている。彼の額を撫で上げ、頬に少し沈む指を、まだ開いてもいない瞼に視線を送りながら額に口付ける。
しばらくして、父さんが跳び込んでくる。誰の子だとはついぞきかなかった。ただ、そうだろうと思っているのだと思う。私の歳を考えたこともあるだろう。
それでも、あの人を憎もうにも、あの人はもういない。あんなふうに死んでしまったのだからかえって良かったと思ってくれているのかも。
父さんだって、あの人は嫌いじゃなかったはずだ。
子供の顔を眺めながらスーウェンを思い出す。あれからすぐ、スーウェンは森に戻ってしまった。この街を見ていると思いだしてしまうから。
無事に帰れたのかはわからない。でも、自棄になってはいてもスーウェンはスーウェンだ。きっと帰っただろう。もう一度あの人が訪ねてくれることを夢見ながら暮らしていく。そんな気がする。
あの人はもういない
父さんもスーウェンを引き留めることはしなかった。これからも皿を仕入れに行くだろう。助けてしまった手前、見捨てるわけにもいかない。
私が空を見ていることに気付いて父さんが言う。
「名前はもう決まってるのか?」
手を伸ばして子供を受け取る。胸に抱き、少し抱きしめながら語りかける。
「あなたの名前は、アーヴ」
私の愛しい痛み。
あなたはきっと、痛みを持って生まれてきた。
血は掬われ、男は救われた。痛みを忘れるな。 ― From the end of this world ―




