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世界が遠い。透明でぶよぶよした半透明の膜が世界を包んでいる。あるいは、包まれている。酩酊に似た、どこでそれを知ったのか思い出せない。確かに酒に酔ったことがあるはずだ。どこか、いつなのかわからない。胃袋だけが小さく焼けるような感覚こそないものの、これはそうだ。瞼が重い。抗いがたく、息を深くする。背筋は仄かに冷たく、しかして震えることなく。そうだ、音楽が聞こえていたはずだ。遠く、旋律も定かでない。ただ眠りに落ちる暗闇を叩く音。やがて消えていく、やがて癒えてゆく傷のような音。深く響き、焼き付くような記憶が跡を残す。不意に口ずさむ歌のような。
遠くに立っている。痛みは確かにすぐ側にある。しかし、膜がそれを隔てる。どんなに手を伸ばそうと無限に隔たる曖昧さの靄。確かな物などなに一つないのだという諦め。大きく息を吸い込み、吐き出す刹那、喉を撫でる冷たさとともに口を閉じる。
痛みの形を探り始める。それが痛みだとわかりながら痛みでない。夢の傷をなぞる。
覚めているのか、眠っているのか。瞼は重く、瞼の裏の暗闇を確かに思う。眠りに落ちる前の酩酊に似た夢。そこには苦い後味がなく、それだけが違うのだと教えてくれる。
痛みの形を拒む。それがどんな形をしているとしても、それを理解したくない心が目を背ける。理解してしまえば逃れられない。それを、痛みを、「痛み」と聴くだけですべてを再現する。それが痛みでなく、夢でなくとも。
すべてが目覚めであるなら?
こちら側に立っている自分は夢でしかないとしたら?
あちら側からこちら側を見ているとしたら?
瞼をきつく閉じて歩き続ける。たとえそれが幻でしかなくとも、躓くまでの道のりが夢であると知ることができるのなら。瞬く今の暗闇こそあちら側であるとしたら?
どこに居る?
自分でない自分を感じる。それは理性の埒外に確かにある。あると信じられる。
何を見ているのかわからない。
音楽隊の演奏は時々止まっているようにも感じられ、時々は目に見えないほどに早く感じられた。それが音楽隊であるのか、はたまた楽譜を渡された素人の集まりなのかを判断する術がない。今はただ、それが音楽であると感じるので精一杯だった。それが音なのか、それともそう感じるだけの別の何かなにかであるのかはわからない。
二人の会話が聞こえる。
それが二人の会話であることは分かると思える。しかし、何一つ分からない。まるで自分が消えてしまったような感覚。すべてが異常で、すべてが正常な世界。何一つ分からず、何一つ漏らさず。私はただ完全だ。私? 私とは?
首が無限に回るような違和感を信じる自分をただひたすらに見下げ果て、それこそが真実であると感じている自分がいる。なにも考えられず、自分すら自分でない。
なにが起ころうとも、なにが失われようとも構わない。ただ移りゆく世界こそが自分なのだという傲慢。あるいは、揺るぎなき真実。
不確かであるが故に。
真実とは信じるものが目の前に現れたときのみ、その姿を現す。誰が語ろうと信じようと、それを感じられるのは自分自身をおいて他にない。
「起きて」
「ほら、お店の人も困っちゃうから」
聞こえているし分かっている。しかし、それが分からない自分がいる。聞こえているのに聞こえていない。自己矛盾の塊。理解しているのにしていない。単なる音としか捉えず、再びそれが聞こえるまではなんの問題もないと思える。
再び聞こえたところでなんとも思わない。
きっと慣れ親しんだ階段を踏み外して死ぬのだという脈絡のない確信だけがある。
「すまない」
そう言った自分は天を仰ぎ、ミハージィの両手に抱かれていた。なぜかその光景を不思議だとは思わなかった。血のついた指先がミハージィの頬を伝うのが嬉しかった。彼女を傷つけることが、彼女の悲しみを誘うことが嬉しくてたまらなかった。
流れる涙と歪んだ顔が自分の生きた証なのだと思えた。彼女は私を信じ、大切に思っていたのだと心の底から信じることができた。それこそが自分の欲しかったものなのだと気付いた。それがどれほど歪み、愚かな望みなのかということも。
ミハージィは男の瞼を下ろした。男はその一言を最後に口を開かなかった。言葉を紡ごうと思えばできたはずだ。しかし、そうしなかった。流れる血を知り、傷を押さえることもせず頬を撫でた。
ミハージィは男の感触が消えていくのを感じていた。触れているのに触れていない。ただ一つ、ただ一人触れていると思えたそれが消えていく。男の隅々を触れ、やはり傷口に、流れるその血にのみそれを感じた。
「ねぇ」
男は何も返さず、ミハージィはただその血を啜った。




