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誰もが演奏に耳を傾けている。滅多にないことだ。喧噪もなく、会話もなく、給仕ですら注文を聞いて静かに戻っていく。叫び声で静穏を破ることはない。
香りの良い茶を眺めながら窓際に座らせた二人を見る。演奏に聴き入り、幕間には感想を口にしあう。窓の外の音は案外小さいが聞こえないというほどでもなく、この時に生きているのだという穏やかな流れを感じる。それがどこか隔絶された別の世界のように感じられたとしても、その世界を見ているのだという慰めが男の目を潤ませた。
眠るように意識は巡る。穏やかな世界から澱む暗闇へ。暗闇の中で生まれる空想が自分の内側へ世界を模っていく。記憶の瞬きがあちらこちらへと跳んでは帰る。終わりは近い。
深い眠りはすぐそこにある。
「寝てるの?」
ミハージィはテーブルの上に身を乗り出し、手を添えて小声でスーウェンに言った。スーウェンは男の顔を覗き込んでしばらく見たあと、ミハージィを見て小さく二度頷いた。
「珍しいね。普段はいつ見ても起きてるのに」
ミハージィの世界では男は眠らない男だった。シャジーチは時々残りの作業を誰かに任せて先に寝たりもする。それは朝早く身なりを整える為だったり商談や他の諸々で疲れていたりと理由があるにしても。他の男を知らないからこそ、ミハージィは男は眠らないのだと半分信じていた。朝のぼんやりとした意識の中ですら男は変わりなく思えた。それはミハージィが半分寝ぼけていてしっかりと見ていないからではあるのだけれど。
「人混みに疲れたのかもね」
スーウェンの言葉をミハージィはあまり理解できなかった。赤の大旗に花吹雪、大勢の人に沢山の店。食べ物や陶器、民芸品に子供だましの玩具。どこへ行っても目の覚める楽しさが溢れていた。馬車に揺られているほうが疲れるとすら思える。
「あなたも疲れてるはずよ。今は楽しいからわからないだけ」
スーウェンも言いながら自分もそうなのだろうなと思っていた。雑踏の中、同じ道を歩き、同じ音楽を聴き、それについて語り合う。二人でもなく、三人でもなく、そこら中にいる人々がそうしている。沢山の人々が同じようにそうしているということがなぜか嬉しかった。自分は一人ではない。特別ではない。今ならきっと話せば分かり合えると思えた。
「ふぅん。いつもは疲れてる顔もしないのにね」
「そうね」
スーウェンはミハージィが感じない痛みのことを思い出した。男はそれに耐えかねているのかもしれない。彼自身がどんな風に感じているのかは理解できないけれど。彼は人混みに疲れているのだ、誰かに触れれば私のように倒れるかもしれない。それほど深く触れ合うことはないにしても。実際に肩を当てて試してみるわけにもいかない。往来でばたばたと人が倒れれば祭りは取りやめになってしまうだろうし、騒ぎが大きければ犯人捜しが始まるのは目に見えている。こんなところで魔女狩りもないだろうが、わからないものを恐れる人の心というものはどこにでもあるし、どうあっても抑えられないものだ。世話になっているシャジーチの商売も立ち行かなくなるだろう。
「起こす?」
ミハージィの言葉にスーウェンは首を振って返した。
「でも、そうね。このまま座ってるだけじゃ悪いし、なにか頼みましょう」
お茶代だけでもそれなりではあったけれど、場所代として見ると少し安い気がしていた。露店を巡るような気分でもなく、小腹が満たせればそれでいいと思いながら中年の女店員を見た。店員はやっとかという風な表情をすぐに隠して近寄ってくる。
「すいません。なにかおすすめの物、ありませんか?」
「そうですねぇ、どれも美味しい物だと思いますけど……どれくらいの量、とかどんな味、とかありませんか」
「甘いものがいいかな?」
スーウェンはミハージィに問いかけるように言った。
「うん、夕ご飯がちゃんと食べられるくらいがいいな」
「そうね」
「じゃあ、これとこれが果物、ここからがケーキでこっちは揚げ菓子。揚げ菓子はちょっと時間がかかる。ケーキと揚げ菓子は他と比べると値が張るけど大丈夫?」
「ケーキ?」
スーウェンが首を傾げる。
「パンのふわふわなやつだよ」
言葉を選んでいた店員の代わりにミハージィが答え、店員がうんうんと頷いた。
「お嬢ちゃんは賢いねぇ。今度からそう言わせてもらうよ」
「でしょー」
「揚げ菓子とケーキ? 一つずつ、二人で分け合ってもいいですか?」
「そうねえ、取り皿なんかは出さないけどそれでいいなら」
店員は周りとテーブルの上を見て言った。他の誰もがお茶を飲んでいるだけで何も頼んでいない。他の客よりはいい客だと思われたのかも知れなかった。
「あ、そうだ。お茶ももう一杯ずつ」
「その人の分はどうするんだい?」 店員は寝ている男のほうを見て言った。
「すいません。疲れてるみたいなんで」
「ふぅん。そうかい。じゃあ、二杯とケーキに揚げ菓子だね」
「ええ。お願いします」
「少し時間かかるからね。それじゃ」
店員は足早に厨房のほうへ戻っていった。夫婦で切り盛りしているのか、それとも女手一つでやっているのか。スーウェンは羨ましいような羨ましくないような、そうやって生きていく気持ちになれる彼女の後ろ姿が消えるまで眺めていた。
「スーウェンもやってみればいいじゃない」
「え?」
「あの人が羨ましいんでしょ。自分もああだったら、みたいだったよ」
ミハージィにそんなことを言われるとは思っておらず、スーウェンは返事に困った。
「スーウェンならなにやっても流行るよ。父さんも言ってたけど。美人で若いなんてもったいないっていつも言ってるし」
スーウェンが困っているとまた演奏が始まった。
「ほら、聴きましょ」
スーウェンは戸惑いながらそう言い、ミハージィは得意げな顔をして耳を傾けた。




