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長い沈黙。
土くれと水玉が混ざり合う。炎がそれを包み、杯となって赤い果物を受け止めた。
スーウェンは熱が引いたのを確かめるように指先で杯の縁に触れ、一周して小さく溜息をついた。男は動かない。驚きも、興味もないように見える。
向かい合うように座り俯いている。目を伏せていても正面を外すことはない。ぼんやりとした視界の片隅にお互いを見ている。親密でも険悪でもない。静かな共生。
この男は何者だろうか。
スーウェンはそう考えながら答えを思いつかない自分に戸惑っていた。沈黙を破ることなく、立ち去るでもない。声を上げるでもなく、手を触れるでもない。
穏やかな気持ちがスーウェンを満たしていた。期待と、ほんの少しの不安。所以なき男が救ってくれるような気がしている。
わざと答えから目を逸らしている。
それを声に出してしまえば、真っ直ぐ見てしまえば消えてしまうような気がした。
スーウェンは微笑むように鼻で笑い小さく首を振った。子供じみた期待と自分の望んでいるものに対する頷き。神の存在を肯定してもいいのかもしれないと思えた。
大いなる何か。運命か、奇跡。言葉の中にはいない神。
男は今を変えてくれるだろうか、目の前から消えてしまう前に。
スーウェンは赤い皮に指を這わせ弱い部分に爪を立てていく。皮が裂け、内側からオレンジの小さな粒が零れる。杯に山と載ったそれを一粒一粒舌先に載せ、口蓋に押しつけていく。甘酸っぱい果汁が口の中に飛び散る。スーウェンは舌の付け根にそれを貯め込み、喉に染みこませるように飲むのが好きだった。
六粒ほど口に放り込んだ所でスーウェンは杯を持ち立ち上がった。男の横に半人前空けて座り、間に杯を置く。男がそうしているように膝を立て、両手をその上で重ねた。
「食べて」
スーウェンは前を見て言った。ローブ越しに砂利の痛みを感じながら先ほどまでの自分を思い描く。男にはどんな風に見えていたのだろう。嫌な女に見えただろうか。一人だけ果物を食べていた女。それでも、この男なら特別なにも思わないと思えた。
男は動かない。
「お願い」
男は一粒だけ口の中に放り込んで一噛みし、すぐに呑み込んだ。二粒目に手を伸ばすでもなく、許しを待っているというわけでもない。
「どう?」
スーウェンの質問に男は諦めたように鼻を鳴らして顔を向けた。
「甘い」
「それだけ?」
「酸っぱいな」
スーウェンは肩を竦めて大袈裟に呆れて見せ、一粒口の中に運んで潰した。
「お腹空いてないの? なにも食べてないのに」
男は中空を見ながら過去を振り返った。
いつから食べていないのだろう。遠い昔に何か食べたことがあるのだろうとは思えた。色々な食べ物を知っている気がする。それが何で、いつ食べたのかさっぱり思い出せないにしても。どんな味だったのか、香りだったのか。輪郭を描こうとすればするほど滲んで消えていく。同じものを食べたとして、果たしてそれと認識することができるだろうか。
スーウェンは男がどこかへ行ってしまったことに気付き首を傾げた。遠いどこかを旅しているような目。ただ足先を見て歩き続けている人の目。触れば砕けて消えてしまいそうな儚さ。襤褸を着た男からそんな印象を受けるとは思っていなかった。なぜ儚いと感じるのか、男はそんな目をして何を見ているのか。好奇心と嫉妬に似た焦燥が胸を急かす。
「――――」
邪魔してはならない。
スーウェンは胸の中で呟く。
なぜ?
スーウェンの中で疑問が渦巻く。なぜ焦っていると思うのか。なぜ言葉を制止するのか。なぜ邪魔をしてはならないと思うのか。女の勘ではない。男の反応が分からないという打算。男の意識に踏み込んでいけるような関係でもない。この関係を壊したくない。
スーウェンはただ待った。男がただそこに居ると感じられるまで。何も感じていない、考えていない、虚空を見ているのだと思えるまで。
「……ねえ」
スーウェンは穏やかな、遠慮がちな声で言った。恐る恐る、気怠い朝に誰かを起こすあの瞬間のように。遠い昔に霞んでしまった思い出のように。
男は眠っていた。ぼんやりとした思索の中で全てを忘れて揺れていた。常にある痛みも苦しさも。何かを考えている、感じていると思っている間は鳴りを潜めた。
「ん、ああ……ぼうっとしていた」
こうやって他の誰かと話している間も。
男は言葉を発している瞬間の無痛を感じていた。痛みが消えるわけではないにしても、苦痛だと思えるほどの痛みではなくなる。意識が痛みから目を逸らしてくれる。
「ああ、そうだったな。腹が減った感じはしない。喉も渇かない」
男は昨日の質問に答えるように言った。
時間に対する感覚が酷く曖昧で頼りないものに思えた。
「わからないんだ。いつ何を食べたのか。色々と食べたことがあるような気はする。ただ、思い出そうとしても思い出せない。それを見ようとすればするほど遠くにあるような感じがして――わからないだろうな」
男は溜息と共に首を横に振った。自分自身が分からない自分に呆れている。それを他人に漏らしたところで何かが伝わることはないだろう。言葉は言葉でしかない。
「そう」
スーウェンは寂しげに言って俯いた。男の真似をするように首を振り、溜息をつく。胸の前で組んだ腕を膝に乗せて顔を埋める。甘さも酸っぱさも男とは違うのだろうか。空腹も渇きも無縁の男。信じるかと問われたら信じるしかない。
それでも、目の前の男は生きている。
果物も一つではない。もう少し、分かり合えるだろうか。言葉は曖昧だ。分かりたい。分かって欲しい。スーウェンは祈りながら目を閉じ、唇を噛んだ。魔女の森を思い浮かべながらあといくつあっただろうかと不安になる。
孤独だけでも同じだと思えたなら違っただろう。
男は孤独を感じていない。一人で歩いていることに苦しさを感じていない。
「もう少し、一緒にいられる?」
スーウェンは顔を上げて呟くように言った。目を閉じ、祈りながら。
男はスーウェンを見ることなく答える。