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 人々は焦がれているのかもしれない。


 時を重ねるごとに、乾いていく。空腹や喉の渇きのように。あの人に触れることに慣れてしまったからだろうか。この世界で唯一確かなもの、自分が感じているのか、あの人だけがそうなのかはわからない。ただ、唯一触れていると思えるもの。私の体がそこにあるのだと感じるもの。いつか離れてしまうのだろうか。


 そのとき、私は追いかけるだろうか。父さんのように。


 ミハージィは膨らみかけた胸に手を当てながら目を伏せた。

 馬車の番をすることにも慣れた。あの人やスーウェンが傍にいるという安心感もある。一人ではこうはいかない。女子供のか弱さは知っている。痛みがなくとも、力がなければ抗うことなどできない。二人がいてくれるほうが嬉しい。気持ちの面でもそうだ。退屈や怒りとも縁遠くいられる。二人と話している間は穏やかだ。こんな日々がずっと続けばいいのにと思える。同時に、こんな日々が永遠であるはずがないと思っている。

 今までがそうだったように。スーウェンと出会ったことも、あの人と出会ったことも。なにもかもが変わり続ける日々の果て。どんな風に別れ、どんな風に思うんだろう。

 ミハージィは最初から思い出そうとした。朧気な茶色で上塗りされた記憶を掘り起こしては息を吹きかける。どれだけ拭おうとしても拭い去れない時間の澱み。音もなく、匂いもなく、ただ見たものだけが霞んでいる。なにを思い出しても裏側には男の感触が張り付いている。記憶の中に触れたとき、あんな風に感じるだろうか、少し違うだろうか。どの思い出に触れてもそれは男の感触でしかない。



 思い出から帰ってきて暫くは空を見ていた。空気の流れる音や鳥の声、衣擦れや吐息の音、遠くで聞こえる笑い声や大きなくしゃみ。世界には沢山のものがあると改めて思った。そのなかで感じられる一つだけがここにあるのだとふと思う。これが特別でなく、運命でなくなんだというのか。私は幸運だった。誰もがそうなのかもしれない。それでも、ただ一人の誰かが傍にいるのだ。湧き上がる思いに神性を感じずにはいられない。先ほどまで考えていた否定的な未来を丸めて捨ててしまおうと思うには十分だった。


「待たせたな」

 父さんは私達にパンを差し出しながら言った。ちょっと待ってくれよ、そう言いながら馬車の後ろの箱をごそごそやって燻製を同じように配る。

「これがな、挟んで食うと美味い」

 言いながらかぶりついてもぐもぐやった。父さんはこうやって食事をするとき、それ以外のことを忘れていられるんだ、きっと。良いことも悪いことも。塩と、胡椒? 油が染みたパンがおいしい。少しだけ塩辛くて、肉の味がする。

 スーウェンは小さく小さく口に運んでいく。丁寧に少しずつ食べている。いつもと同じように、いつも同じように。

 あの人は、いつもそうだ。その時々の一口を食み、その時々の食べ方をする。零しそうになりながら、それでもどこか静かに食べる。それが口に運ばれていくのが当然のように。まるで水が流れるとか砂埃が風に飛ばされるみたいな。ただ食べてる。そんな気がする。

 私はゆっくり、少しずつ食べる。舌を噛み切らないように、自分を食べないように。血の味は知ってる。鉄のスプーンみたいな味。美味しくないし、良くないことだってことも知ってる。母さんが教えてくれたことの一つ。父さんには言うなって言ってたっけ。今ならそれがどういうことなのか分かる気がする。母さんがいなくなったことも。だから母さんは沢山のことを私に教えようとした。痛みや怪我について、他人との違いについて、私を見る辛さについて。いつ死んでしまうかもしれない私について。父さんが母さんを賢いというのもわかる。母さんの言葉はいつだって私を助けてきた。先回りしてきた。まるで私だったみたいに。生まれてからこれまでの失敗を失敗にしないために。

 母さんが逃げ出したくなった気持ちもわかる。あの人が死んでしまったらどうすればいいのかわからない。ただ一つの、ただ一人の誰かが死んでしまったら。私は母さんにとってたった一人の私だった。私に恨まれるかもしれない、それが恐ろしかったんだろうと思う。恨もうにもなにが恨めしいのかわからないし、母さんがいないのは寂しかった。母さんが出て行ったのは失敗だったと思うけど、母さんが出て行ってなかったらあの人とも出会わなかっただろうな。そう考えると、あのまま三人で暮らしていたら私は母さんを恨んでいたかもしれない。でも、あの人を知らずに済んだのかも。知らなければどうにもならない。きっと誰かと一緒になって、なんにも感じなくて別れていく。そっか、そういうの、なんだか辛くなりそう。だからかな、母さんが出て行ったの。

 やっぱり、母さんは賢い。

 ミハージィは考えながらも口の中に集中していた。それがどれだけ危険なことなのかを母が常々語っていたからだ。外側の傷は見えても、内側の傷は見えない。痛みを感じないということはそれだけで恐ろしいことなのだと。

 死について考えてもミハージィは答えを得たことはなかった。痛みは分からない。暗闇の中にいるような漠然とした恐怖、耐え難い退屈や目覚めない眠り、誰とも会うことのできない孤独、ただ恐れなさいという言葉の通りに恐れていた。物語の子鬼や獣を忌避するような曖昧な恐怖。繰り返し絵本を眺めるほどに恐ろしさは薄れていく。考えれば考えるほどにどうでもいいと思えてくる。それでも、賢い母がそう言っていたのだからと恐れる。


 母さんは私のことを知っている。


 母さんは私のことを考えてくれている。


 だから、母さんの言葉を信じられる。


 ミハージィが食べ終わる頃、他の三人はこれからどうするのだのとはなしている。服についたパンの粉を払い、口元を拭って男の前に座る。いつ座っても収まりが良く感じられる。体が大きくなるにつれて男の胸を感じ、頭の横にある顔を感じる。時々抱きしめて貰うのは不思議と心地よかった。力一杯やってくれと言っても怪我をすることはない。力強く、傷むことのない優しさ。穏やかさに包まれる。男がなにも考えずそうしていたとしても、ミハージィはそう感じずにはいられなかった。


 毎度、スーウェンとシャジーチが少しばかり苦い顔をしてもミハージィは自慢げに笑う。





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