51
51
雷。鋭く、地を裂くような。鈍く、岩を割るような。閃光、轟音。白んだ夢を覚ますように雨は降り続ける。三日三晩の雨は冬を洗い流し、雲は枯れ野に雫を残して消えた。
道には大きな水桶が並び、それぞれがどうということもなく手伝いをしていた。やがて家々の前に大桶が行き渡る頃、町は静かに白息を吐き始める。
皆が皆、息を殺して営む。声の上がるともふれる者はなく。酒場の上げる叫声に掻き消されていく。子の歌う声は拙く、ただただ繰り返す。
冬を追うように、あるいは春を目指して歩む。雪が降り、雨が降り、晴れ、風吹く野を馬車は行く。野を渡り、山を越え、一つ、また一つと町を渡る。草を食む馬を眺め、花を摘むのを躊躇いながらスーウェンは口を開く。
「次の町はどんなところかしら」
誰に向けた言葉でもない。最初の町を過ぎ、二つ目の町を歩き、三つ目の町を思う。しかし、心持ちはそれぞれに、今では楽しみにさえ思える。
自分はなにを怯えていたのだろう。人々は日々を暮らしている。それぞれがそれぞれに価値のある日々を過ごし、あるいは無為を悔いている。法も戒律もなく、ただそれぞれに良いと思う生き方で生きるのだ。
シャジーチの世話になりながらも自分は自由なのだとスーウェンは繰り返した。初めはそう信じるために、やがて自分を奮うために。今ではそれを信じるがゆえに。
スーウェンは花を摘もうとした手を戻して立ち上がり、振り返って男を見た。男は変わらない。変わっていないと思えるのに、見違えて見える。どこが違うともわからない。それでも、かすれたような儚さは消え、微笑みを浮かべるでもなく優しく見える。女のような仕草をしているわけでも、ましてや体つきをしているわけでもない。それであるのに、どうしてあんなにも振る舞い柔らかく穏やかに見えるのかわからない。
ミハージィは相も変わらず男について回っている。そして時折見せる表情がスーウェンの胸の内をざわつかせた。幼い甘えの中に垣間見える照れのような表情。それがどんな感情によるものなのか、彼女自身分かっていないであろうその表情が耐えられず目を逸らしてしまう。何度腕の中に倒れ込んでみても目覚めるのは夢の中。自分だけが受け入れてもらえないのだという嫉妬に似た感情。あるいは、自分が受け入れられないのだという劣等感。彼女の天性が、それは不幸にも幸運であったと思わずにはいられない。
男はミハージィに触れるようになった。頭を撫で、抱きしめてくれと言われればその通りに言うことを聞いてしまう。シャジーチに目配せをしてみても少しばかり戯けて肩を揺するだけだ。彼女はまだ子供だというのに。
「スーウェン」
いつの間にか俯いていたスーウェンに男が呼びかける。森にいたときよりも、前の町にいたときよりも、ずっと柔らかな声で。かすれているのに、どうしても胸に響く。
「なあに?」
変わらないように、変わらないと思えるように返事を返す。
「火と水を頼む」
「ああ、ええ、わかった」
他のことで声をかけて欲しかった。
もっと私と話して欲しかった。
そんな気持ちが積もっているように感じる。
スーウェンは水と火を呼びながら思った。自分のできるこれは男にとって便利な道具でしかない。そう考えて首を振ることもしばしばあった。
男がミハージィとよく話をしているなんてことはない。口数も増えてはいない。単に自分が変わってしまっただけだ。腕の中に跳び込んだことを悔やんでいる。
男はそれについて話そうとはしない。自らの与えた痛みに目を伏せるばかりで慰めや言い訳、ましてやそれを諫めることもない。男はなにも変わらない。出会ってから今まで、変わってきたのは私なのだろう。男は求めれば求めるだけ与えようとしてくれている。ただ、それが彼にとって難しいというだけの話だ。私の求める彼が、彼にとって難しい。
そう、それだけの話だ。
諦めた風に胸の中で呟いてみたところで空腹に似た気持ちは消えなかった。飢えだ。そのうちに身を焦がして死ぬのだ。焦げ付いていくスープのように。弱い火がじりじりと。
鍋の中身は同じように煮え、焦げ付く前に注ぎわけられていく。器を渡されたとき、スーウェンははっと我に返って立つ湯気を見た。乾いたパンをまぶして一口、恐る恐る口に運ぶ。そうしている間は考えることを忘れている。結局のところ、空腹が自分を迷わせているのかもしれない。空腹に似た気持ち、それは空腹を満たすことで幾分か和らぐ。
「おかわり、ある?」
スーウェンの言葉に驚いたシャジーチはすぐに返事をすることができなかった。遠慮なのか小食なのか、普段食べる量はシャジーチの半分程度でしかなかったからだ。
「ああ、あるよ」
「貰ってもいい?」
スーウェンが器を差し出す。
「なんだ、今まで遠慮してたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「今日に限って腹が減ったって訳か」
「わからない。明日も減るかもしれないし」
シャジーチは表情を緩ませて小さく鼻で笑った。
黙々と食べ、後始末をする頃には気分が落ち着いていた。空腹に似た気持ちは空腹だ。きっと、そういうものなのだと思う。
スーウェンは満腹を感じながら森での思い出を思い返していた。寂しかった日々も思い返せば数日のように思える。驚くほど憶えていることは少ない。男がやって来てからのことのほうがずっと鮮明で、それが同じ日だったのかわからない程度には沢山の思い出だと思えた。ミハージィに対する嫉妬のような気持ちもなぜだか薄れた。甘える仕草も、照れたような表情もやがて消えて忘れていくだろう。たとえそれが初恋だと感じたとしても、きっと彼女から離れて行くに違いない。
彼女はまだ子供なのだから。
こうして思うに、男がミハージィを受け入れるとは到底思えなかった。痛みを教えられるとしても、それが自分一人だと思っているとは思えない。ミハージィにしても、世界を知れば気が変わるだろう。男は止まり木だ。目をはなせば消えてしまうような。
そんな風に考えながら、囲んだ火の向こう側に座る男を見て溜息をついた。




