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 雨が降っている。冬の雨だ。少しばかり残った雪を洗い、次の日はそこら中に氷を見る。きっと昼過ぎまで誰も動かない。滑って怪我をして笑い話になる程度ならまだいいほうで、それで骨を折って歩けなくなった誰かを知っているならクスリとも笑わない。

 少しばかり暗くとも窓を開けるわけにもいかない。ランプの火が部屋を照らしている。仄暗い部屋の中でシャジーチは静かに横になり、男はミハージィを股座に座らせて手を弄らせている。男は時折スーウェンのほうを見る。

「ずっと手を触って、どんな感じがするんだ?」

 男はミハージィにだけ聞こえるような声で囁いた。他の誰もが痛みを感じるのだ。ミハージィもやはり痛みを感じているのだろうというのは想像に難くない。ただ、程度が違うというのは想像するに難しく、柱の角に足の指をぶつける程度だとか、逆にそういう程度をミハージィがもっていないのだ。それが唯一の痛み。語ることのできるすべて。そのすべてを語るには言葉が足りず、痛みが足りないのだ。

 ミハージィは首を左右にこっくりこっくり動かしながら考えた末に言った。

「なんて言えばいいのかわかんない」

 男はミハージィの頬肉を摘むようにして少し揺すった。柔らかく張りのある頬。恐らくこの程度なら痛くないだろうという加減をミハージィはどう感じているか。

「こういうのは?」

「わかるけど、わかんない」

 世界の殆どは目に見える世界でしかない。肌に触れるのは男だけだ。それが自分の肌だと感じさせてくれるもの。目に見えるだけの世界が形をもった瞬間。地に立つ感覚すらなく浮いている。なにもかもが。

「わかるけどわからない、ね」

 そういって男は仰向けに倒れた。固くも柔らかくもないベッド。横になった男の上でミハージィは重なってみたり枕にしてみたりして動いている。

 いつか、わかるようになるのだろうか。


 スーウェンはそんなミハージィを見る度に自分の寂しさを見つける。そうすることに、そうしたいと思う度に自制を求められているような気分になる。自分があの年頃ならああやって甘える事も不自然ではなかったのに。

 どうしてそうすることに抵抗感があるのだろう。男のことを嫌いだとは思っていない。どちらかといえば好きな部類だ。あまりにも狭い関係性の中で男と呼べる存在が彼しかいないということでもあるけれど。

 彼は望まないだろう。

 そんな推測だけが胸の奥で重く沈んでいる。今までがそうだった。そうであるからこそ彼は一緒に暮らしてくれたのだと思う。そう思わずにはいられない。人は変わるものだとわかってはいても、彼が変わってしまうことを想像することができない。自分が望まないものを彼が望むだろうか。苦しみは終わらない。

 そして痛みを思い出す。それが恐ろしいとは思えない。

 それでも、あの痛みがすべてを許してくれるのだ。あの痛みがあると知っている。そう考えるだけで自分の気持ちを許すことができる。彼の隣に座ることを躊躇うことが自然だと思うことができる。彼に触れたいなら、そうするしかないのに。

 自分が痛みを知らない少女だったなら。男達が自分にしたことにもなにも感じなかっただろうか。あのままなにも知らず、なにも分からず死んでいたかもしれない。男に会うことはなかっただろう。逃げ出すことも、森で暮らすことも。すべては今でしかない。昔を考えることにいったいどれほどの意味がある?

 こうだったら、ああだったら。昔を考えてもなにも変わりはしない。変わった先が見えることなんてない。それでも考えずにはいられない。

 スーウェンは立ち上がり、ゆっくりと二人の傍へ寄った。腰を落とし、ベッドの軋む音がそれを告げる。男の上に重なっていたミハージィがスーウェンを見る。いつの間にか男は目を閉じている。炎の色がゆらゆらと表情を変える。よく見えないからこそ顔色を窺う。

 触れないように、ゆっくりと体を預ける。ベッドが軋み、沈む。瞬間は落ちるように。少しばかり開いた腕の隙間に潜り込んで頭を乗せる。

「ッッハッ」

 体が強張る。痛みが突き抜けていく。思うように体が動かない。息もできない。反り返り、自由の利かない自分の中に痛みが、涙が溢れていく。息が、できない。


 スーウェンが動かなくなった後、申し訳なさそうに男は体を起こした。

 言葉はない。

 シャジーチも体を起こして男を見ていた。目が会う。ミハージィは相も変わらず、悪びれることもなく男の脚やらを触ってはごろついている。

「つらいな」

 シャジーチは自分がそうだったらと思いながら言った。もしも独り身で思い人もおらず、そんなときに旅先でスーウェンのような美人がもたれかかってきたとして。自分に触れるだけでその人が気を失うとしたら、これほど残念なことはないだろう。確かに、体を求めているという部分は少なからず、いや、男としたらかなりあるだろう。それでも、自分が受け入れられているのだという事実に抱かれているのだ。至るまではともかくとして、その瞬間にこそ許されているのだという実感もあると思う。言葉ならず、会話としてのそれ。

 男はシャジーチを見、スーウェンの顔を覗き、憐れむような目で首を少し横に振った。

 ミハージィは構わず股座に座り直し、男は困ったような顔でシャジーチを見た。娘の父親としてこれをどう思うのか。男にはそんな気持ちを露ほども想像できなかったが、それはあまりいい気持ちではないだろうという考えはあった。

 シャジーチは立ち上がり、隣のベッドに腰掛けた。

「少し話そう」

 倒れたスーウェンの上を静かな声が行き交う。

「ミハージィはどうして平気なんだ? スーウェンのそれが演技だとは思えん」

「わかりません」

 それがわかるなら説明しているだろうし、わかったところで誰が得するとも思えない。

「スーウェンのことはどう思ってる」

「いい人だと思いますよ」

「そういうことじゃあない」

「魅力的ですよね。美人で、色々できる」

「まあ、そうだな」

「ミハージィについてはなにも言わないんですか」

「悪さをしたのか?」

「いいえ」

 聞くまでもない。確かに可愛い娘だが、男のような人間が熱を上げるほどとは思えない。

「ならいい。そんなことにはならないだろうが、もし……」

「もし?」

「そんなことになったら一言教えてくれ。少なくともこの道なら世話をすることくらいはできる。暮らして行くに不自由はさせたくない」

 シャジーチの言葉は真に迫り、男はそれについてとやかくいう気にはなれなかった。父親であること、娘には幸せになって欲しいのだという願い。

 ミハージィはなんのことを話しているのかわかっているのだろうか。自分がそういう風に見えるということに無自覚だと知っているのだろうか。男は自分の腕の中に座っている少女がどういう存在なのか計りかねている。


「ベッドを入れ替えても構いませんかね」

 男はスーウェンに毛布を掛けながら言った。いつ目覚めるともわからない。

「まあ、そうしたんだからいいだろ。あとあと文句も言うまいよ」

「宿から文句もでませんか?」

「ああ。誰がどこを使えなんて宿はこっちから願い下げだ。嫌な予感しかない」

 男はスーウェンのベッドに移り、ミハージィもそれについて移った。シャジーチは隣のベッドでミハージィが男にじゃれついているのを見て微笑んでいる。


 雨音の中の衣擦れが部屋を満たしている。



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