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 変わりたいのか?


 男は車輪の音を聞きながら考えていた。次の客の家に着いてからも。変わるとはどういうことなのだろう。自分自身を残しながら別の誰かになることなどできるだろうか。それは死だ。どんな風に繕っても。次の自分がどんなに上手くできたとしても。

 同時に、自分がどんな風だったら幸福だっただろうかという考えも浮かんできた。


 この痛みが無ければどんなに幸福だろうか。


 しかし、どんなに考えを巡らせてその世界を覗こうと足掻いても意識を研ぎ澄ませるほどに痛みは澄んでいく。それがどんな形をしているのか理解できる一歩手前まで肉薄しているような気分にすらなる。痛みに追い立てられているのか、痛みを追いかけているのかわからなくなる。

 シャジーチが馬車を降りる時の表情を思い出す。昔に縛られた男の顔。変わりたいのかと問いかけつつ、その実、自分自身が変わりたいという願望を抱えているような男の顔、変わりたいのかどうかすらわからない。葛藤の表象。知り得ぬ過去の再現。

 そんな表情を浮かべた男が馬車を降り、門を叩く頃には笑顔を浮かべている。それは柔らかな、笑顔としか呼べないのに表情と呼ぶには迷う不思議な穏やかさ。その瞬間だけは救われているかのような安堵。それを変わり身と呼ばずしてなんと呼ぶのか。


 男はシャジーチがその時に変わっていると感じながら、それは同時に二つ人ではないと確信した。変化というのは他人から見た外側に過ぎない。誰に受け入れられるか、それだけのことに過ぎない。


 変わるということは望んだ人物に受け入れられるために振る舞いを変えるということ。


 自分のために自分を変えようとは思わない。それは既にそこにあり、それがどんなに不幸であろうと受け入れるしかないからだ。幸福な自分を想像することなどできない。自分自身を知っているからだ。どんなに理不尽で恨めしく思えても選べる道は一つ、選んだ道は一つだったのだから。無限の荒野を歩こうとも歩んだ道筋は変えようがない。


 自らの選択に従う限り、誰もが自分自身から逃れることはできない。


 誰かの意思に沿うからこそ、何者かになることができるのだ。誰かを思うからこそ。


 思うとはなにか、思われるとはなにか。この考えているなにかの奥底から湧き上がる衝動こそが自分であり意思なのだ。そう考えているそれ、思考する自分が疎ましい。


 叫び、走り出す。


 そんな想像が意識を埋める。内側と外側を交互に反転させるように跳ね回る。望む者を求めてのたうっている。希望を求めている。腹の中で燃えるものが皮を焼くように感じる。


 燻る犬の成れ果て


 飢えだ。男は不意にそう思った。なにを望んでいるのかもわからない、いや、望みを欲しがっているのだ。それはどこにもなく、今の自分を消し去ってしまうほどの救いだ。救いを求めている。救いに形はなく、形のある救いはない。


 炭のように黒く、影のような欠けとなって疾駆する成れ果て。


 触れるものを汚したくはない

 大きな光がすべてを呑み込んでくれたなら

 その光が曇らぬ光なら


 男は大きく息を吸い、吐くことを忘れ空を見た。灰色の空に青が混じる。空の大きさを考えれば雲など小さなものだ、そう考えているとしても、空は灰色だ。町が雲に覆われているのだとわかってはいても、自分の空が曇っているのだ。

 雨は降るだろうか。それとも雪が。人のいない通りに影が冷たさを呼び込んでくる。石畳が、土が、風が、薄ら寒い世界へと続いている。

「スーウェン」



 男がそう呼びかけてからどれだけの沈黙が続いただろうか。スーウェンは俯き加減に目を泳がせていた。沈黙こそが正常で、呼びかけがあるなどとは思っていない。夢の中にいるような虚脱感のなかで混じった音が形を持っていくのを眺めている。

 スーウェンは驚いて辺りを見回し、男が自分のほうを向いていることに気付いた。呼びかけられただろうか、それともただ眺めていただけだろうか、偶然こちらに目が向いたのかもしれない。驚いたことに驚いたのかもしれないとも思えた。


「呼んだ?」

 スーウェンは戸惑いながら言った。男はスーウェンの目を見てゆっくりと頷いた。今まで男が声をかけることなどなかったのに。一体なにが起こったというのだろう。スーウェンは自分の考えもしないなにかが起こったのではないかと思いながら問いかける。

「なにがあったの?」

「なにもない。ただ、寒くないかと思って」

 体が冷たくなるにまかせて固くなっている。撫でれば震えるほどに冷たい。しかし、それは二人とも一緒だった。

「毛布、出す?」

「いや。寒くないのかって思っただけだから」

 男はそう言って前を向いた。問いかけたところで自分にできることはないと理解している。そしてスーウェンが耐えられない寒さなどないと知っている。そうなる前に火を呼べばいいだけの話だ。たとえ気兼ねしてそうしないとしても。自分の言葉は気休めでしかない。ただ、その気休めが変わるための一歩であるような気がしている。

「ありがとう」

 スーウェンは男を見ながらそう言い、自分を抱きしめた。


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