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「なにがあった?」
シャジーチは前を見たまま言った。スーウェンが泣いていることについてなにも言わないまでも、それを無視することは難しかった。蟠りを残したまま旅を続けることは難しい。双方にとっての利益、見た目の、感情を考えない部分での利益なんてものは往々にして蟠りを上回りはしない。小さな蟠りはやがて大きく膨らんでいく。あらゆる小さな不利益が積み重なって起こる破局の前では見かけの利益など無に等しい。だからこそ、商人は共に旅をする仲間を選ぶ。人の波を、砂の海を、深い森を通り抜けながら無事に帰るために。
「変わりたい。忘れたい。寂しい。そう言ってました」
男はさもそれを聞いただけだという風に言った。それについて語ることはないと信じていたし、そう信じたいと思っている自分を感じている。しかし、それは疚しさでなく、単に自分の弱さを見せたくないという気持ちの表れでもあった。
「そうか」
シャジーチは男の様子に気になるところを感じながらもそう言って頷いた。男がスーウェンに対して言い寄ったのならこんな騒ぎでは済まない。争うなら、スーウェンの良心が咎めたとしても、いや、騒ぎを恐れて男の為すがままであったなら今頃気を失っているはずだ。男の痛みが消え去っていない限り。しかし、それを確かめる術はない。そんな風に男を疑いながらもシャジーチは男に対して不思議な信頼感を感じていた。この男がそんなことをするはずがないし、もしそうであるならスーウェンが泣いているということもないだろう。そんな根拠のない信頼。商人としての自分に対する驕りだろうか。人を見誤ることのない自分に対する信頼。
しかし、男の言った理由から泣いているというのなら、それもまた信じられる。森から出てきた理由を考えれば当然だろう。慣れない環境というのはそれだけで不安なものだ。たとえどんなに良質な、安全で快適な場所であろうとも。それが偽りでないと信じるまでには時間が必要だ。孤独な時間であったとしても、そこにはやはり平穏が流れている。そこから遠く離れ、ふと頼れる人間が傍に居ないとき、傍にいる独りだけが自分と心を通わせてくれる可能性をもっているのだと感じているとき、寂しさはやってくる。その誰かが離れていく想像や、変わってしまうという恐れ、あるいは、自分自身が変わり果て、すべてを忘れながら笑っているのだという恐怖。地続きとは思えない未来の地平に夢のような不確かさを感じるのだ。たとえそれを望んでいるとしても。
シャジーチはまるで自分の過去を遡るような気分でそんなことを考えていた。それはシャジーチの望んだものではなかったけれど。傍にいるはずの一人がある日いなくなり、その空白を埋めるために人々の間を歩んでいる。地続きとは思えない未来の地平に立って変わり続けた世界を思い返す。誰かといる時間に気を紛らわせながら、島と島を渡る船が大渦に呑み込まれるような不安と共に生きている。
どんなに探しても埋まりはしないのだ。一度開いた穴を塞ぐことはできない。すべてを忘れてしまわない限り自分の中から消してしまうことはできない。代わりはいない。愛すべき誰かに再び出会えたとして、消えてしまった誰かを忘れることなどできないのだから。そうして出会った誰かと過ごす日々が心に罅をいれる。去っていった誰かに対して負い目など感じなければこんなこともないだろうに。愛という不確かなもの、神が見ているのだとでも思っているのか、誰にも問えず、確約することのできない誠実さの奴隷。
ただ証明することだけがそれを実現させる。
呪いだ。シャジーチは誰にも聞こえない声で言った。自分自身、そしてスーウェン。誠実さという悪魔に囚われた奴隷なのだ。それは証明し続けることでしか成し得ず、完成することはない。そして砂粒ほどの一欠けで崩れ去っていく。自分が自分であるということですら、自分であったというだけのことですらそうして握られている。
「変わりたい、か」
シャジーチは誰に聞かせるともなく呟いた。どうすれば変われるのか、そんなことはわかっている。すべてを投げ出してしまえばいい。それだけだ。あらゆる責任から目を逸らして獣のように生きればいい。欲望のままに生き、すべてを恨んで死ねばいい。
男は悲しげな表情を浮かべながら首を振るシャジーチを横目で見ながら息を呑んだ。覚悟と諦めが同居した男の顔だ。そんな顔をどうして知っているのか分からない。胸に渦巻く靄を振り払うように男は荷台を見た。スーウェンとミハージィが並んで座っている。それだけのことに安心と不安を感じた。あの二人がこれからどんな人生を生きていくのかが無性に気にかかった。
「お前さんはどうなんだ?」
シャジーチが男に問いかける。
「どういう意味です?」
シャジーチはそれと分からぬほどに首を傾げて考える。男にこんな問いかけをすることに意味などあるのか。滑稽で馬鹿馬鹿しい問いではないのか。男はなにも持たない。変わろうと思えば変われるし、変わろうと思っていたならこんなところにはいないのではないか。暇つぶしに使うにはあまりにも重く、気分の乗らない話だ。
「お前さんは変わりたいと思うか?」
結局のところ、自分は空白を恐れているのだとシャジーチは思った。なにも考えない空白、白い手帳にはいつの間にか文字が書き込まれる。それが望む望まざるに関わらず。それならば先に書き込んでしまいたいのだ。たとえ上書きされて不愉快な出来事でもみ消されたとしても。
「わかりませんね。変わり者なんだろうな、とは思いますけど」
シャジーチは自分で変わり者もないだろうと思いながら小さく頷いた。男はなにかを目指してここにいるわけではない。なにかが欲しくてこうしているわけでもない。ただここにいるという現実だけが男を現実につなぎ止めているのかもしれない。そんな直感がある。
「ただ……」
男はそう言って言い淀んだ。それが本当に自分の言葉なのかわからない。そんな逡巡。
「ただ?」
シャジーチは促さずにはいられなかった。男に魅力を感じているとは思えないのにどうしても知りたい、知っておきたいという好奇心が喉から漏れてしまう。
「自分が望むように変われるなら変わりたいんじゃないですかね。今の自分をなかったことにできるなら。すべてを忘れられるなら変わりたいし、変われるんじゃないかな、と」
シャジーチは大きく息を吸い込んで吐いた。冷たい空気が頭の中を洗い流したような妙な清々しさがあった。変われるかどうかは自分の問題ではないのかもしれない。自分の望む世界に迎合するような都合の良さがなければ人は変われない。今ある世界に受け入れられなければ死ぬしかないのだ。根拠のない確信が胸を埋める。鼓動を少しだけ強く感じる。悟りとはこんなものなのかもしれないと思いながらも、シャジーチはそこに救いはないのだなと思わずにはいられなかった。




