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 例えば――。

 そう言ってスーウェンは俯いた。唇に右手の人差し指を押しつけながら今までを思い出す。これからを語るためにいままでを探している。



 村、牢獄、森の中。今思えば村にいた時が幸せだったのだろうと思う。ただ、今のまま村に戻ったとしてなんになるというのか。森の中の時間だけが緩やかに流れ、他のすべては流されていった。今こうして旅をしている時間、新鮮さに胸躍る時間は平穏ではないのだ。思い出すにつれ変わっていく世界。なによりも変わったのは自分だ。

 熱さが、痛みが、怒りが、世界への向き合い方を変えてしまった。

 春の温かさも、夏の暑さも。穏やかな秋も。凍える冬さえ、そのどれもが思うに遠い。そこにある季節を感じることはできる。何も感じないわけじゃない。でも、感じているものに対する気持ちは酷く曖昧だ。空虚と言ってもいい。温かい、熱い、涼しい、寒い。でも、ただそれだけ。恋しく愛おしい季節なんてない。恋しく愛おしい場所なんてない。


 恋しく愛おしい時間なんて、なかった。


 生きている者達は眩しい。日の光の中で生きている、青い空を飛んでいる彼らは美しい。でも、愛しいわけじゃあない。常に傍に居たいと思えるほど恋い焦がれることなどない。彼らを羨みながら、それでも、彼らのせいではないと知っているだけだ。打ちのめされた自分をぶつける相手ではないのだと、知っているだけだ。


 どんなところへ行きたい?


 今の私がいないところへ


 打ちのめされた私が、いないところへ。


 私を変えることはできるだろうか。私が私であるなら、できないのかもしれない。

 今の私が私がそうしたように、昔の私を忘れられるなら、今の私を忘れられるなら。



 スーウェンは大きく息を吸い、鼻の上を見るような興奮を感じていた。望んでいるものが見えたような気分だった。ずっと探していた正解を不意に思いついたような閃きの興奮。それが間違っているかもしれないという不安の入り交じった胸の高鳴りを。


「例えば、私が変われるところ」

 男は頷きもせずスーウェンを見て問い返す。否定でも肯定でもない質問。

「どうすれば変われると思うんだ?」

 私を忘れられるなら。そう思うことがどれだけ難しいか。忘れるためにできることなどないように思える。永遠に眠るような、命と引き替えに得る願いのように思えた。

「悪魔に魂でも売ればいいのかしらね」

 悪魔なんてものが本当にいるとは思えない。仮に魂を売り渡したとして、その私が幸せになれるはずがない。幸せになりたい。幸せになりたいのだ。

「悪魔のいる場所へ行きたいのか?」

 男は抑揚のない声で言った。悪魔などいるはずがない。悪魔がいてもおかしくはない。そのどちらでもあるような声で。

「どんな風に変わりたいんだ?」

 男はゆっくりと言った。それがどういう意味なのか薄々分かっているような口ぶりだった。きっと、変わるということに対して真摯に向かい合ったことがあるのだろう。それがいかに難しく、外面的なものであるかを理解している。そんな顔だ。

「今を忘れたいの。今まで、かな。私は幸せになりたいけど、今までを忘れないと幸せになれない。信じてるのよね。信じなきゃあいいのに」

 スーウェンは言いながら土を見て首を振った。どこへ行こうとも振り払えるはずがない。そんな風に諦めようとしていた。自分がどうしたいのか、どうすればいいのかも分かっている。それでも、そうできる気がしなかった。

 男は肩の力を抜いて言葉を返す。まるで自分の後を追う子犬を憐れむような寂しさの滲んだ表情を浮かべながら。

「諦めていないなら、いつかそうなる」

 男は右手を力なく握り、掌を見てから続けた。

「人に会うことだ」

「え?」

「忘れたいなら、変わりたいなら、人に会うことだ。誰かのことを考えることだ。自分のことを忘れろ。沢山の人に会ってその人達を憶えることだ。独りでいたらなにも変わらない。独りでいるなら、見つめられるのは自分だけだ」

 男の顔はスーウェンのほうを向いていた、しかし、スーウェンを見てはいなかった。自分の歩いてきた道のすべてを思い返していた。墓場から丘を越え、川を渡り、草原を抜け、森に迷った日々を。何度繰り返したのか分からない迷走を。そのすべてを言い聞かせるように男は言葉を連ねた。そして最後に、言葉にならない言葉を胸の中で呟いた。


 独り歩くなら、見つめられるのは自分の痛みだけだ。


 それは男の最後の抵抗だった。痛みから逃げる事のできなかった自分を救うためにできる、たった一つ残された道。痛みから逃げる事が自分にとってどんな意味を持つのかすら忘れていた男の、自分自身へ向けた最後の言葉。

 それは男にとってなんだったのだろう。痛みからただ逃げたいと思うことは弱さだろうか、痛みと闘うことが果たしてできただろうか。痛みを受け入れ、幸せになることができただろうか。


 痛みを、忘れることができるだろうか。


 男はいつのまにか泣いていた。表情を崩さず、ただ溢れる大粒の涙が頬を伝っている。全身が熱く疼く。駆ける血と痛みが肩を震わせる。

「忘れてくれ」

 男はそう呟きながら、そうなることを願っていた。

 ただ自分の言葉によって、目の前の女が救われればいいと願っていた。



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