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 スーウェンは男を見ていた。良く晴れた日、少しだけ風の吹く穏やかな日。馬車の中で二人が戻ってくるのを待っている間の空白。静かな時間。男は動かない。手綱を握ってはいても馬を見てはいない。俯いたまま遠くを見ている。土の向こう側、思い出の中、いつか見た景色、あるいはどこでもない、なにものでもない場所にいる。

 震えるほどにない肌寒さに自分を抱く。撫でるほど小さな痺れが体を走る。昨日の風呂がそうさせるのか、普段とは違う感覚。旅中の馬車では感じられなかったもどかしさ。目の前にいる誰かに、触れたいと思う吐き出せない感覚。お腹の少し上で渦巻く暗闇のような、言葉にできない。


 寂しさだろうか。言葉を交わし、背中を抱きたい。


 もう一度触れたらどうなるのだろう。痛いかもしれないし、痛くないかもしれない。倒れるかもしれないし、倒れないかもしれない。痛いのに倒れないかもしれないし、痛くないのに倒れるかもしれない。そのうち慣れて大丈夫になったりするかもしれない。それでも、どうなるのかわからないのに何度も痛みに触れるのは嫌だった。痛みに慣れるなんてことがあるだろうか。何度転んでも痛いものは痛い。何度触れても火は熱いだろう。そう何度も触れてはいないけれど。次は大丈夫かもしれない、そう思うには少し、私は臆病になりすぎた。私が泣かずに擦り剥いた膝を眺めることができるのは慣れたからじゃない。感じないわけでもない。その痛みを知っているからだ。何度も繰り返してそれは大した痛みじゃないと知ったからだ。大きな痛みを知って、あれに比べたらと思いながら身構えているからだ。痛みは消えたりしない。痛みに慣れたりしない。

「ねえ」

 スーウェンは荷台から身を乗り出すようにして声をかける。触れようか触れまいかと伸ばした手を収めながら。肩を叩くことはできない。振り向いて貰うだけのことが難しく感じられる。触れられないのなら、せめて自分のことを見て欲しい。

「ん……? ああ」

 男は呆けていた自分を引き戻す。肩越しにスーウェンを一瞥して首を傾げた。

「なんでもないんだけど」

 天気が良いとか、風が少し冷たいなんて話は宿を出るときに済ませてしまった。荷物が崩れたなんて話をするために荷物を崩そうとも思えない。困った末に口から出た言葉。

「退屈なんだろう?」

 スーウェンは退屈という言葉を噛みしめるように頷く。これは退屈なのだろうか。独り森の中で景色を眺めているのと大して違いはないはずなのに。町の景色が森よりも退屈だからとも思えない。森は生きている、町も生きている。確かに市場ほど彩りがいいとは言えないけれど、それでも退屈な景色だとは思えなかった。

「退屈なの?」

 男も退屈なのだろうか。だから退屈なんだろうと返してきたのかもしれない。でも、私は町を退屈だとは思っていない。退屈だと思っているのかな。違うことが不安になる。

「いや。なんとも思えない。でも、こういうものなんだとは思える」

 男は辺りを見回し、スーウェンを見返して言った。あるものがあり、ありうるべきを探さず、ただ見て頷くような。

「私も退屈じゃない」

 男は何も言わずに頷く。そういう風に聞いてしまったのは自分だと分かっている。退屈かと聞かれたら退屈だと答えたくなるものだ。断る理由がなければ尚のこと。

 しばらく二人はなにも言わずに町を見ていた。傷んだ木を取り替えたのだろう跡。通り過ぎる人。子供の声が聞こえ、遠ざかっていく。物珍しげに見る者もいない。流れる雲と影。馬達が時折土を掻く。

「どんな人だと思う?」

 スーウェンの言葉に男は目を伏せる。どんな人物がどんな格好でどこに住み、どんな家を建てるのかと考えを巡らせるのは難しかった。そんな風に思えるほど人を見ていない。自分がいてスーウェンと会い、シャジーチとミハージィを知った。男の思い出せる人となりはその程度でしかない。

 男は周りの家よりは大きな家を見る。しかし、別段際立ったものはない。表に像や調度が置かれているわけでもなく、門や壁で隔たっているわけでもない。建物の調子はそれほど変わらないように見える。

「頑張ってるか、頑張ってた人じゃないかな」

 世の理を知っているわけでもない。単に他の人々よりも労力を惜しまなかった人だからだろうと思えただけだ。他と比べるということはそういうことでしかない。それが真っ当な成果であるならそうだろう。

「そう言えばそうね」

 スーウェンはなぜともなく納得していた。こうして考えると自分の中にもこれといった人物像は浮かばない。田舎の家はどれも似たようなもので、それでいて住んでいた人はそれぞれだった。庭や畑を差し引けば田舎のほうが広いと思える。誰もが変わらないと言えばそんな気もするし、シャジーチと話す姿を想像すると高齢の男性が浮かんだ。

「おじいさんか、おじさんか」

 スーウェンは男に促すように言った。

「仲の良い家族かもしれない」

「そういう見方もあるのよね」

「二人が戻ったら聞いてみるといい」

 男はそれが当たっているかどうかに興味がなかった。スーウェンはそこが少し寂しかった。どっちが正しいのか賭けをする。退屈しのぎにああだこうだと言い合うだけの他愛ない遣り取りが恋しかった。小さな頃、誰とそんな話をしたのかも思い出せない懐かしさだけが胸の奥にあるのを感じた。


「あとどれくらいで戻ってくると思う?」


 二人が戻ってくるまでは、こうして話していられる。


 二人がいても話せないことはない。それでも、スーウェンには二人だけで話すこの時間が惜しく思えた。ミハージィが懐いているのを邪魔するのは気が咎める。シャジーチの好意で二人は連れられているのだから。幾ら皿を作り壺を作れると言ったところでそれを売れるほど世の中を知ってはいない。それでなくとも、シャジーチは恩人だ。

「それまではこうして話でもしていればいい。行く当ても急ぐ理由もない」

「行きたいところとか考えるのもいいかも」

「例えばどんな?」

「そうね、例えば――」


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