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 老人と肩を叩きあい、シャジーチは手を振った。馬車に乗れば振り返りもせず、ただ前を向いていた。景色に目をくれることもなく、ただ道だけを見下ろしていた。車はかたかたと鳴り、老人は薪割り場のほうへ歩いて行った。

 遠くで薪割りの音が聞こえる。トントン、タン。トントン、タン。やがて車の音に掻き消され、寂しさとも名残惜しさとも言えないような意識の隙間を感じる。そこまで親しい仲でもなく、これから先、いつ会うとも知れぬ相手だというのに。スーウェンはそんな風に考えながら今日の目覚めからを思い出していた。

 どんな風に目覚めたのか思い出せず、どんな夢を見たのかも思い出せない。朝の空気は冷たく、体を擦りながら寒いと思った。想像をなぞるように体を抱き、小さく体を擦る。視線は宙を泳ぎ、不意に精細を取り戻す。

 さむい……つめたい……。

 なにか大きな発見をしたような気分がスーウェンの胸を躍らせた。それがなんなのかはわからず、それが収まらないうちに見つけなければならない焦りと共に。暗闇の中を飛ぶ思索のように再び視線が宙を泳ぐ。車の音揺れる木床、木箱。男と、ミハージィ。

 スーウェンは何度か瞬きをして言った。

「ねえ」

 男は少しだけ顔を傾けてスーウェンのほうを見た。自分に向けられた言葉でないことを感じたのか眠たそうにミハージィのほうへ顔を向けた。

「なぁに?」

 ミハージィは男の股の間で男の掌をいじりながら言った。

「朝のこと憶えてる?」

 スーウェンの言葉にミハージィは首を傾げ、何かを思い出すように左上を見た。朝のことを憶えているか、憶えていることは憶えている。忘れたことは忘れているからわからない。スーウェンが何を思い出して欲しいのか分からず首を左右に傾げてうーんと唸った。

「たとえばどんなこと?」

 スーウェンは頷いて答える。

「あなた、つめたいって言った?」

 ミハージィは手を止め、真上を見て右左と動かす。目覚めから今までを見ている。自分がなにを見ていたのか、自分の外側がどうなっていたのか。

「さむいって言ってなかった?」

「いったかも」

「寒いとか、冷たいとか、わかるの?」

 スーウェンの口調は問い詰めるようなものではなかった。ただ知りたい。どうあっても感じることのできない答えを知りたいと思っていた。ミハージィが寒さを知り、冷たさを知ったのか。あるいは知っていたのかを知りたかった。

 知ったからといってなにかが変わるわけでもない。それが以前からだったとして、今朝から変わったのだとして、なにがどうなるわけでもない。

 ミハージィが嘘をついていたとか、勝手に騙された気分になっていたとか、そういうわけでなく。ただ知りたいと思っていた。

 ミハージィは視線を下に落として口を尖らせ、頭を小さく揺すった。わからない。明確な否定でもなく、肯定でもない。スーウェンの寒さや冷たさをわからないのだ。そしてそれについて語る言葉もない。ただ、自分が見た世界にあった「さむさ」や「つめたさ」を見たことがあるというだけのことだった。

「からだがふるえること……?」

 ミハージィは自信なげに答えた。

 確かに寒いと体が震える。冷たさを感じれば背筋が震える。そんなこともあるだろう。しかし、ミハージィにとって寒さとはある特定の体の震えかたであり、自分の意思と無関係なそれでしかなかった。寒い、冷たいという言葉は観念的な観察の結果としてある名詞でしかないのだ。

 スーウェンは言葉を返せなかった。

 それは正しく、同時にどこか別の世界の言葉のようだった。私達は寒さを感じることですら自分の思うように体が動いているのだと思い込んでいる。震える体を擦る手やゆっくりと息をしながら丸める背中が自分のものだと思っている。吐き出す息の白さを寒いとは思わない。それでも、「さむい」し「つめたい」のだ。

「……そうね」

 スーウェンも視線を落として寂しげな返事を返した。

 ミハージィが感じているのだと、感じたのだと思った。それはどこか胸の躍る、救いのような感覚だった。持たざる者が僅かながら与えられ、切っ掛けとして変わっていけるような、ある種の希望。そんな奇跡があるのなら、自分にもそれを望むくらいは許されるだろうという羨望に似た願望。胸の内に秘める小さな夢。しかし、違った。

「そうなのよね……」

 スーウェンは自分が何に対して落胆しているのかを計りかねていた。ミハージィにとってのそれがどんなものであれスーウェンが感じるものではない。ミハージィが感じても感じなくても、それはスーウェンのものにはならない。

「でも」

 でも、なんだというのだ。スーウェンは小さく呟いた言葉に胸の内で反駁し首を横に振り、思わず右手で制した。ミハージィの何を知っているというのだろう。それを知ることがミハージィの幸せだとでも思っているのか、自分は焼ける痛みを恐れ、嫌い、逃げてきたというのに。誰かが冷たさや寒さを感じることが幸福だとどうして言い切れる。ミハージィに寒さや冷たさを感じて欲しいなどと自分は思ったのか?

 スーウェンは目を閉じて首を振り、息を吐いて男を見た。

 男はいつもと同じ顔でスーウェンを見ていた。スーウェンが何を言いたいのか、何を言いたかったのかすべて知っているような、表情なく、感情なく、穏やかさだけがそこにあるような顔で。スーウェンはそれを瞼に焼き付けて俯いた。なぜだかそれをずっと見ていたかった。理由もわからず、どうしたいのかもわからない。そうしていたいと感じていた。

「おねえちゃん?」

 ミハージィが覗き込むように首を傾げ呟く。男が左手で頭を撫で、抱くように背を引き寄せる。ミハージィは不思議そうに男を見て言葉を待った。



「疲れてるのさ。少し寝よう」


 馬車の音が遠ざかっていく。


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