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 女は目覚め、上体を起こす。

 火の玉が浮かび洞の中を照らす。揺れる影の中で壁に背を預けて眠る男。

 口から小さく息を吸い、鼻からゆっくりと吐いていく。肩の力が抜け、穏やかさが女を満たす。微笑む自分を探すようになぞる。表情ではない。女は心の中で微笑んでいる。

 朝、目を開けて独りでないということがどれほど心安らかだろうか。夜盗や審問の類でなくそれがあるということが。与えるでも奪うでもない、ただ共にあるということが。

 女は音を立てぬようにゆっくりと椅子へ向かった。籠の中の果物を手に取る。

 緑色の大きな雫。頂点を口の中で噛み切って中の液体を飲んでいく。甘く、花のような香り。良いとも悪いとも言えず、鼻をついて抜ける香り。飲むにつれて萎んでいき、底に一つ種だけが残る。鳥はこの臭いが嫌いで、虫は大好きだ。女は昔を思い出しながら男を見た。男はどんな顔でこれを飲むのだろう。


 洞の中は仄かに温かく心地よい。寒くも暑くもなく、時折ひんやりとした空気が流れている。石敷きが気になる者もいるだろうが、そんなものは大した問題ではない。男はどれだけぶりか分からない眠りを感じていた。眠っている間だけはなにもかもが曖昧だ。

 痛みすらも。

 嫌な気分だった。こうやって何かを思い出す度に痛みを思い出す。痛みを思い出すと目が覚めていく。否応なしに広がっていく。そこが夢の中でも現実であっても。

 小さな痛みが全身に行き渡り、男は一瞬だけ表情を歪めて消した。目を開けば女がこちらを見ている。男は大きく一呼吸し、女の方を見返した。

「よく眠れた?」

「ああ」

 男は聞き取れるか怪しい返事を返す。しかし、声の調子には濁ったものがあった。

 女はわざとらしく眉を歪めて返した。ベッドはそれなりのサイズで広くはないが狭くもない。風呂も用意できるからと提案した。それでも断ったのは男だ。誘ったのだからもてなしたかった。何を与えるでもない、男がすべて拒絶したのが不思議でならなかった。要望に応え、多くを望まず、それが奪うための仮面であるでもない。会話一つなく過ぎた昨晩が思い返された。何を訊いても憶えていない、謝るでもなく不遜でもない。ただ申し訳なさそうに繰り返すだけ。滲んだ表情は辛さや悲しみ。答えることに疲れたという風にも見えなかった。女の知っている男とは違う種類の男だった。

「嘘」

 わからない男だと思っていても声に出さずにはいられなかった。

「嘘じゃない。ここは寒くも暑くもない。なにより、狼に喰われることもない」

 答えながら男は思い出す。狼に噛みつかれた夜を。どの夜かは憶えていない。ただ、狼に噛みつかれた夜があったことは憶えている。俯せていようと仰向けであろうと関係ない。彼らは一噛みして去っていった。暫くは傷口が痛んだ。それは常にある痛みよりも激しい痛みだった。動けば傷口が開き、傷口が開けば痛みを感じる。それでも歩かずにはいられなかった。眠り続けることは難しい。倒れるほどに疲れ、全てが曖昧になるまで歩いているほうが楽だった。たとえ足がぼろぼろになろうとも。

「それも嘘」

 狼に襲われたなら今のあなたは何者?

 あの痛みは私だけじゃないってこと?

 砂利の上に座って眠るなんてどう考えてもよく眠れるわけがない。痛みを感じない?

 女はそんなことを考えながら言った。男がその全てに頷く気がした。

「嘘じゃない」

 男はそう言って俯いた。

 男の表情は諦め。女はそれが本当なのだと思った。何を言っても信じて貰えないだろうという諦め。語る言葉を持たないものの言葉。精一杯の一言と沈黙。

「わかった」

 女は右手の人差し指で唇を押さえながら少し考えた。

 思いつき、指を離すと同時に口を開く。

「もしかして、だけど。狼はあなたを一口囓って逃げた?」

 男は初めて女の目を見た。女は確信した。

「「どうしてそれを?」」

 女が笑う。男は不思議そうに首を傾げた。

「あなた、自分のことも分からないの?」

 女の言葉に男は再び俯いた。返す言葉もない。昨夜からそればかり口にしている。

「ははは。私が悪かった」

 女は笑いながら言った。誰かを知るというのは気分が良い。それが好きになれそうな誰かなら尚のことだった。触れることはできないにしても。

「あなた、かなり痛いのよ。焼かれるくらい」

 男は首を傾げる。女の言葉を計りかねていた。

「焼かれる痛みを知ってるのか?」

 女はローブで肌を殆ど隠している。表に出ているのは顔と手先くらいなものだ。それにしても火傷の跡はない。風呂で足でも焼いたのだろうか?

「残念だけど火傷じゃない」

 女は俯き、暗い昔を遠くに見ながら答える。

「烙印。焼けた鉄の棒でね、碌でもない印を背中につけられた」

 男は何も言えなかった。軽い気持ちで訊くべきではなかったと悔いた。女は魔女だったのだろう。これで離れるのがまた難しくなってしまった。

「いいの。私はまだ生きてるし」

 それは男への赦しだった。印をつけた者への憎悪は今も燃えている。復讐は叶わないにしても、その火を消すことはできない。奴らに神はいない。それだけが女の支えだった。

「あなたは魔女のことなんて忘れられる人だと思うから」

 男は小さく頷いた。女の言うことは理解できているつもりだった。口外しない。その点は同意できた。しかし、この女と会ったことを忘れることは絶対にないだろう。痛みと共に出会った最初の記憶。この痛みがある限り忘れることはできないだろう。或いは、忘れてしまえるのだろうか、この痛みと共に。それとも、より大きな痛みに塗られて消えていくのだろうか。どこかの誰かの思い出に混じって消えていくのだろうか。

「――なぜ魔女だと?」

 なぜ魔女だと打ち明けたのか。或いは、なぜ魔女ではないと言わなかったのか。

「さあ? なんとなくじゃダメ?」

 女は得意げに言った。直感がそう告げていて、それは正しかった。それを誇っている。

「いや」

 否定する理由も、否定しなければならない意地もない。男はそれ以上何も言わなかった。


「名前を聞かないの?」

 沈黙に耐えきれず女が言う。久々の会話が途切れるのが酷く寂しかった。自分のことをもっと知って欲しかった。男のことも、知りたかった。

「先に名乗れないからな」

 男の言葉に女が笑う。

「それに、根掘り葉掘り聞くのは性に合わない」

 女は大袈裟に頷いて言う。


「私の名前は――」

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