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虞 おそれ
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空腹。男は壁に背を預け、燻製を片手に座っている。二人が鍋のスープを注ぎ、パンを囓るのを見ながら考えていた。空腹とはなんだろうか。腹の中の締め付けるような違和感と空白にいったいどれほどの意味があるのか。それを見ている間は全身を跳ね回る痛みから目を逸らすことができる。それによって倒れるわけでもない。それは今までが証明している。しかし、今までとこれからが同じだという保証はどこにもない。空腹によって倒れ、消えていくこともあるのだろうか。それとも、疲労感と睡魔によって倒れたと思っていた今までが間違っていたということもあり得るのだろうか。そこまで考えたところで顔を上げ、二人を見る。
二人は時折視線を交わしながら黙々と食べている。窓から差し込む光のせいだろうか、二人の表情が明るく感じられるのは。鍋から微かに上る湯気が霧のように眩しく漂っている。小さな丸テーブルに向かい合って、ミハージィの空になった器にスーウェンが注いでいる。どれくらいか、これくらいか、頷き、器を渡す。ただそれだけのことを直視できず、男は下を向き、燻製を囓った。塩と、肉と、何とも言えない香り。美味い。しかし、それにどれほどの意味があるのか。食わずとも死にはしない。それはたまたま食わずとも死なない時だったという話なのかもしれないが、死んだからなんだというのだ。燻製を吐き出す程度のことだ。美味いものの味を忘れ、痛みを忘れ、疲れを忘れ、自分というすべてを忘れるだけのこと。吐き出されたそれを誰に分けると言えなくなっただけのこと。囓らなければ手渡せただろう。それを味わい、笑える誰かに。
死とは。
男は恐ろしい輪郭の外側に立っている。それに触れなくて済む一歩手前。踏み出したくない一歩を踏み出したような感覚。死の先を感じるような閃き。
すべてがそこに残るとしたら?
痛みや苦しみ、空腹や空虚、目の前の眩しさや燻製の美味さから、そのすべてから逃れられず囚われてしまうとしたら?
腐りゆく肌を感じ、肉を割く牙を感じ、風に流れて千切られていくことを感じるのか?
或いは――。
優しく撫でる指先を感じ、熱く湿る涙を感じ、惜しむ歌に抱かれながら焼かれる。
男はいつの間にか涙ぐみ、肩を大きく上下させながら息をしていた。悲しいのか恐ろしいのかわからず、どうすればいいのか、どうしたいのかすらわからない。
涙を流しても。
胸の中で色のない悲しみが渦巻いている。
煩わしく響く痛みを穢れのように感じる。
そこに残るなにかを魂と呼ぶのかもしれない。
それが痛みや苦しみを帯びているのなら――。
いつか見ていた墓穴が目の前に現れる。
暗闇の中に一際暗く、降りしきる雨にぬかるむ。
崩れ、溶け、沼のように空を映す泥の洞。
虞
いつか悪いことが起こる。いつか、あそこへ戻っていく日が来る。どちらへ、どこまで歩いたとしても。独り歩いていたころはこんなことを考えはしなかった。ただ、痛みから逃れようと歩いていた。
こうして誰かの傍で足を止めていると考えてしまう。誰かの平穏を乱しはしないか。
スーウェンは悲しむだろうか。ミハージィは惜しむだろうか。そんな二人を見て面倒に思いながらシャジーチは土をかけるだろうか。
男は首を振ってゆっくりと大きく息を吸い、長く吐いた。二人がそれと分からぬように。
自分が死を恐れているのだと認めなければならない。それは誰かのせいでも、誰かに責を負わせるからでもない。漠然とした不安が自分の中にあるのだ。痛みや苦しみに囚われたくはない。そうでないにせよ、やはり、死にたくはないのだ。
男は立ち上がり、ミハージィの隣に立った。スーウェンのほうを向いて視線を上下させ、迷うように目を泳がせて言った。
「少し分けてくれないか」
「珍しいわね」
スーウェンは口元を緩めて答えた。普段ほとんど口にしない男が食事を求めている。特に飢えているように見えるでもない、単に同じものを食べたいと思ったのだろうか。そんな風に考え、そんな男を少し可愛らしいと感じていた。
「まだ食べる?」
「んーん。お腹いっぱい」
「ですってよ。器とスプーンがまだないか聞いてくる。座ってて」
男は頷いてスーウェンの席に座った。
「美味かったのか?」
「おいしかった」
「そうか」
男はお腹を擦りながら幸せそうにしているミハージィを眺め、戻ってくるスーウェンを見ながらもう少し生きていようと胸の中で呟いた。




