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寒い。鳥の声がうすら青い空気に響いている。
火を灯すことに慣れすぎている。常に傍にある温かさを感じられないというのがどれほど冷たく、寂しさを感じるものなのかと改めて知った。荷台の上もそれなりに寒かったけれど、起き抜けの寒さというのはまた違ったものだと感じる。なによりも体が冷たい。お腹も空いている。
冷え切った空腹がどれほど寂しく、独りを感じさせるのか。いままでもこんな風に感じていただろうか。上体を起こし、輪郭の滲む影の中でミハージィのほうを見る。丸くなり、それでもすうすうと寝息を立てている。
スーウェンは自分を抱くようにして肌を擦っていた。どうしてそうするのか、なぜそうすると温かいと知っているのか。幼い頃を思い出し、幼い頃に居るような錯覚を感じた。とても現実的で、それでも幻なのだという感覚。暗闇の中で涙を感じ、目を擦る。
私は帰ってきた。なぜだかそんな言葉が頭に浮かんだ。父も母も居ない。薄れ、消えかけた思い出の家でもない。それでも、帰ってきたのだと思った。これからどうなるのだろう。私が火を灯すたびに彼らが追ってくるのだろうか、私は、火を起こせるだろうか。そう思うと自分がなにもできない女に思えてきた。薪を割ることもなく、土を耕すこともない、水を汲むことも、麦を碾くこともない。なにもかも、私は四精に頼って生きてきた。
スーウェンはそこまで考え、震えに気づいた。手が、全身が震えている。抱くように体を擦りながら口を歪ませ、開いた目は乾いているのが感じられた。浅い息をやっとの事で吸い、吐く。次を吸うことに手間取りながら目を閉じ、首を振った。
四精に頼れなくなったとしたら
私にできるだろうか
私になにができるというのか
胸の中に大きな隙間ができたような気がした。息を吸う度に冷たい空気が渦巻いているのを感じる。わけのない、否、直視できない不安が全身を震わせていた。それがなにかはわかっている。それでも、それを認めることはできなかった。
「ねぇ」
スーウェンは言いながらミハージィに手を置く。彼女はそれを感じているだろうか。思う限り優しく置いたつもりだった、痛くしなければ感じないだろうか、いや、彼女は痛みを感じない。それが嘘か本当かはわからないにしても、無駄に傷つける理由にはならないだろう。彼女は揺れていることを感じるだろうか。ゆっくり揺するたび、息が乱れ、ミハージィは小さく姿勢を変えた。
「ねぇ、起きて」
ミハージィは何度か呻るような声をあげ、掌で目の周りを拭いながら返事をした。
「んー。なぁにぃ」
「ひっついてもいい?」
スーウェンは言いながら笑った。どっちが子供なのかわからない。ミハージィはなんだそんなことかという顔をしながらスーウェンの胸元に潜り込んだ。
「いいよぉ」
スーウェンは右腕にミハージィの頭を乗せるようにして包んだ。毛布をかけ直し、ミハージィの額を胸に押しつけるようにして。誰かに触れるというのはいつ以来だろう。男の痛みは忘れてしまった。温かく、柔らかい。誰かを抱くというのは、抱かれるというのは。少なくとも私が温かいうちは抱かせてくれるだろうか。抱かれてくれるだろうか。
生きているのなら、それだけで満たされている。不意にそんな確信を得たような気がした。それが正しいのか間違っているのかはわからない。ただ、それは信じられるだろうと思えた。たとい火を起こせなくとも、他のなにができなくとも。そんな風に考えるのは私が女だからだろうか、それとも、四精を操れた、ある意味での特別さがそう思わせているのだろうか。
考え始めればきりがない。今はただ、ミハージィの寝息を聞いていよう。柔らかく艶のある髪、指のつかえを優しくほどきながら梳き撫でる。さわさわと髪の鳴る音は心地よく、呼吸が穏やかになるのを感じる。腕の中で緩やかにふくれ、静かにしぼむ。少しだけ強く抱く。ミハージィは変わらず寝息を立てる。受け入れられているという感覚。それが独りよがりに過ぎないとしても。もう少し強く抱きたい気持ちを抑えつけて額に額を当てる。どちらがどちらより、温かい。髪に頬を当てる。泥や汗のにおい。なんともいえないミハージィのにおい。私もそうだろうか。それでも、受け入れてくれているのだ。
「おい、起きろ。スープが冷める」
扉の向こうから響くシャジーチの声で目を覚ます。ミハージィは目を擦り、髪を撫でながら返事をする。いかに眠かろうと朝はやってくる。空腹も。
「おはよう」
「ああ、おはよう。昨日はなにも食わなかったろう。残りもんも足してあるからしっかり食べとけよ。旅の途中で倒れられたらどうにもならんからな」
スーウェンは浅く頷き、昨日を思い出す。ベッドに倒れ込んで、夜中に目を覚まして、確かになにも食べていない。息を吸う度に体の奥が冷たい。あの不安はお腹が空いていたからだろうかと思い返す。とにかく、空腹だった。
「すぐ行きます」
「ああ、ミハージィも起こしといてくれ。おらあ馬の準備してくるからよ」
「はい」
「じゃ、またあとでな」
そう言ってシャジーチは行ってしまった。
ミハージィはそれを見て再び横になって毛布を被った。
「ほら、起きて」
母の見る私はこんな風だっただろうか。愛おしく、可愛らしく、助けたいと思うような娘だっただろうか。
「さーむいー」
スーウェンはなにも言わずに火を泳がせる。温かい光が部屋を照らした。
「ほら」
毛布を剥ぎ、水を泳がせてミハージィの頭を撫でつける。揉むように撫でるように、蛇が皮を剥くように、少しだけ冷たい風で目を覚ます。
「さっぱりしたでしょ」
「つめたい」
「そうね。少しだけ温まってからいきましょう」
ミハージィは腹をくぅと鳴らし頷いた。泣く子も腹の虫には勝てない。




