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 男は俯いてそれ以上語ることはなく、ミハージィも自分の手を見つめて黙っていた。

 空気が悪かったとは思わない。続けようと思えば続けられた会話だったと思う。それでも何も言わなかったのはミハージィがそれを受け止めて考え始めたと感じたから。自分の持たない感覚についてとやかく言う気にはなれなかった。

 揺れる荷物が崩れないかと目をやりながら遠ざかる空を見ている。どこか息苦しく、内側に向かって引かれるような気持ちの悪さを感じる。不安。嫌な予感だとか胸騒ぎのような具体的な何かでなく、多分、始まりに対する不安。期待と不安。物語の始まりに決まって起こるなんとも言い難い居心地の悪さ。始まり。


「着いたぞ」


 シャジーチの言葉にミハージィが両方を見る。なんと言えばいいのかわからない。それでも、誰かと目的地に辿り着いたという事実が胸を躍らせる。何度も訪れたことのある小さな村であっても、そこを知らない誰かと歩くことは初めてなのだから。

「荷物は?」

「大丈夫。お疲れ様」

「宿のオヤジと話してくるから馬を見ててくれ」

 頷き、伸びをする間もなくシャジーチは行ってしまった。ミハージィは一番に立ち上り手綱を握った。馬達は腹を撫でるミハージィに頬を寄せては鼻を鳴らした。少し離れて見ている男に首を伸ばしては傾げている。

 森を出て少しの村は疎ら、ざっと見渡して十軒。それぞれに畑が広がり、家畜小屋が見える。それぞれがそれぞれに生き、時には助け合うのだろう。遠目に見るなら家はどれも似ている。シャジーチは宿と言ったものの、それほど広いようには見えなかった。記憶の中の家よりも小さいような大きいような気がする。体が大きくなったからそう感じるのだろうか。思い出の中ではなにもかもが大きい。子供の頃を思うと家族が住むのには狭い気がした。部屋が一つ空いている、そんな感じだろうか。考えながら、気付けば右の掌を見ながら開いたり閉じたりしている。掌は、指先はこんなにも大きかっただろうか。世界は小さくなり、自分は大きくなっていく。いつか自分が世界のすべてになるのかも、そんな考えに口元を緩めて首を振る。

 ミハージィの隣に立って馬の首筋に触れる。優しく触れて撫で下ろす。ゆっくりと逆撫でして整える。少しだけ力を感じるように揉み、少しずつずらしていく。耳の裏を親指の腹で推しながらなぞっていく。時折自分にするように、自分自身を労るように。

 馬達はそれぞれに気に入った仕草を繰り返すように首を動かす。言葉でなくわかりあうような感覚。それが正しいのかはわからない。それでも、なんとなく気持ちのよいことなのだろうとは思える。わかりあうために必要なのは言葉ではなく、ただ心地よく触れ合うことなのかもしれない。


「おう、待たせたな。手前の樽降ろすの手伝ってくれ」

 戻って来たシャジーチの言葉に男が頷く。樽というのはなんとなく軽く見える。丸いからだろうか、しかし、二人の動きを見るになかなかの重さのようだった。

「いらっしゃい」

 白髪の老人は静かに言った。しっかりとした立ち姿ながらどこか寂しさを感じさせる。

「お世話になります」

「なに、空いてる部屋を貸すだけだ。独りだと退屈でね」

「おう、この樽は台所でいいのかい」

「ああ、頼む」

 シャジーチと男は樽と一緒に老人の家へと入っていった。

「出て行くんだって?」

 老人が言う。残念そうな、悲しそうな言葉だった。

「ええ、でも、どうして?」

「なに、事情はしらんがあの森に誰かを匿うってのはあいつを見てればわかる。あんたがいてくれたおかげで俺は独りじゃなかったのさ。年に一度くらいはね」

「ありがとうございます」

「いや、そういうんじゃないんだ。恩を着せたいとかそういうんじゃあね。婆さんが死んでからはなんというか、誰かの役に立ってるなんて思えなかった。あんたが立ち直って、どっかで幸せになったら俺も報われるってもんだ」

 この人が黙っていてくれたから、私は独りでいられたのだろうか。魔女と追われてきた女が森に住むと知っていたら、そうしてくれただろうか。不安を感じ、胸の奥で首を振る。

 私は魔女なんかじゃない。

「あんたが出て行くってことはあいつはもう来ねえのかな。こんなところに来てくれる商人なんてのは珍しくてよ。あいつの塩がどれだけ嬉しいか。なあ、あんたからも言ってくれねえか、次の年も来てくれよって」

 匿って貰った恩、面倒を見て貰った恩、黙っていてくれた恩。これ以上を求めることはできない。色々な物事が重なっているのを見て目を伏せる。


 バン。老人の背中を叩く音が響いた。

「なーにしょぼくれてんだよ。来年どころか爺さんが死ぬまでは来てやるよ。ちゃんと燻製用意しとけや。ものがありゃあ来るし、なけりゃこねえ。死ぬまでせっせと燻製つくってもらわなきゃ困るんだよ」

 シャジーチはそういって笑った。嘘だか本当だかわからない。きっと、嘘だけど本当なのだろう。取引半分、励まし半分。

「ま、こっちも死んでたら来れねえからな。そんときゃあ勘弁してもらわないと」

 老人はわざとらしく顔を歪めてシャジーチの背を叩き返した。

 バン。痛そうなのに全然痛くなさそうな音。きっとそういうものなのだろう。

「ま、どっちが先にくたばるかな」

「なにをぉ?」

 そうやって二人はしばらく笑っていた。二人はどうやって出会ったのだろう。私も出会えるだろうか。背中を叩いて笑えるような誰か、いつかまた会おうと思える誰かに。商人というのはこういうものなのかもしれない。強がっていても、シャジーチは寂しいのだと思う。寂しいから、寂しい誰かを訪ねて回るのだ。少なくとも、今はそう思える。

「ま、薪でも割りながらちょっと話すか」

「ああ。三人とも中でゆっくりしててくれ。ぼろいベッドしかないが」

「ミハージィ、案内よろしく」

「はーい」

 二人は馬車を動かして行ってしまった。私達は、私はベッドに倒れ込んで寝てしまった。思いの外、疲れていたのだろう。薪を割る音が響いていた気がする。



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