表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/62

34


34



 男はただ座っていた。自分でもそれと気付かないほど穏やかな空白だった。車輪の軋みや積み荷の揺れる音、左手に触れられる感触。なにより、痛みを忘れている。歩き続けた末の無意識とは違う、波になったような感覚。


「だめだ」

 男は静かに言った。ミハージィにも聞こえないような小さな声で。

 意識と共に痛みが戻ってくる。それを手放したくない気持ちもあったかもしれない。しかし、ミハージィを許すわけにはいかなかった。

 ミハージィはそれを聞いて手を止めた。

「どうして?」

 ミハージィは知りたいのだ。傷の痛みを、流れる血の意味を。男にもわかっていた。それが同じ痛みなのかを確かめたいのだと。押しつけられた爪を引けば割けるかもしれない。そうなれば血も流れるだろう。しかし、それではわからないのだ。

「わからないからさ」

「ほんとうに?」

 男は馬車の揺れの中で頷いた。答えていないように見えただろうか。そんな心配は感じなかった。これだけの言葉で話すことができる。ミハージィにわからないわけがないと思うには十分な理由だった。


「なんの話?」

 スーウェンが声を抑えて尋ねる。

 ミハージィは首を傾げて返す。それについて語る言葉をもたない。


「知らないほうがいいことの話」

 男が呟くように言う。ゆっくりと取り上げた左掌を見る。傷はいつか治る。しかし、傷ついた事実は癒えない。傷はなくても痛みだけは残る。引き返すのなら、傷つく前がいい。

「ああ」


「でも、あなたなら教えられるんじゃないの?」 


「それが正しいのかはわからない。与えることはできても」



「教えることはできない?」


「自分でもわからない。ただ――」


「――ただ?」


「引き返すなら今だ」






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ