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男はただ座っていた。自分でもそれと気付かないほど穏やかな空白だった。車輪の軋みや積み荷の揺れる音、左手に触れられる感触。なにより、痛みを忘れている。歩き続けた末の無意識とは違う、波になったような感覚。
「だめだ」
男は静かに言った。ミハージィにも聞こえないような小さな声で。
意識と共に痛みが戻ってくる。それを手放したくない気持ちもあったかもしれない。しかし、ミハージィを許すわけにはいかなかった。
ミハージィはそれを聞いて手を止めた。
「どうして?」
ミハージィは知りたいのだ。傷の痛みを、流れる血の意味を。男にもわかっていた。それが同じ痛みなのかを確かめたいのだと。押しつけられた爪を引けば割けるかもしれない。そうなれば血も流れるだろう。しかし、それではわからないのだ。
「わからないからさ」
「ほんとうに?」
男は馬車の揺れの中で頷いた。答えていないように見えただろうか。そんな心配は感じなかった。これだけの言葉で話すことができる。ミハージィにわからないわけがないと思うには十分な理由だった。
「なんの話?」
スーウェンが声を抑えて尋ねる。
ミハージィは首を傾げて返す。それについて語る言葉をもたない。
「知らないほうがいいことの話」
男が呟くように言う。ゆっくりと取り上げた左掌を見る。傷はいつか治る。しかし、傷ついた事実は癒えない。傷はなくても痛みだけは残る。引き返すのなら、傷つく前がいい。
「ああ」
「でも、あなたなら教えられるんじゃないの?」
「それが正しいのかはわからない。与えることはできても」
「教えることはできない?」
「自分でもわからない。ただ――」
「――ただ?」
「引き返すなら今だ」




