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最後の一切れが器に残されている。ミハージィは外を眺め、時折その一切れを一瞥する。とっておきの一切れ、選び抜いた一切れ。一口一口と減ってきた一切れ。残された時間がどれほどあるのか、とっておいたそれはまだ美味しいだろうかと考えている。
シャジーチは喜ぶだろうか。きっと喜ぶだろう。ミハージィの期待を裏切らないように。時が経てば経つほど不安は積もっていく。本当にそれが美味しかったのだと思えなくなっていく。もう一つ残しておけばよかった、そんな考えに胸の中がざわつき、ミハージィはスーウェンを見た。
「大丈夫よ」
それが何に対しての大丈夫なのかミハージィにはわからなかった。それでも、不安に思う気持ちをスーウェンが気付き、気遣ってくれているのだということに安堵した。しかし、わかっていても不安が完全に消えてしまうわけではない。
ミハージィはテーブルに載せた腕を枕に俯いたり横を向いたりして落ち着かない。見ている分には動きは緩やかで寝返りを打つような穏やかさを感じる。しかし、それは生来の気性であり、今の今まで無事に生きてきた理由の表れでしかない。
ミハージィの感じている落ち着かなさは子供心に感じる空白への嫌悪感や退屈とは少し違う。それは理由もなく感じる焦り。
ミハージィは常に移り変わる視線の先を見ては自分がどうなるのかを想像している。そこには何があり、何があったかを感じ、傷まぬよう思索を巡らせている。それは言語的な思考ではなく限りなく実像に近い想像であり、直感的で閃きに近い。何が危なくて『痛い』のかを見ている。退屈とは無縁だ。
知らないことに対する焦り。それは馬達が開けた場所を好むのに似ている。見えないこと、知らないこと、わからないことを恐れる。痛みを、なによりも傷むことを恐れている。二人がいつ帰ってくるのかわからない。帰ってくるだろうとわかっていても、それを無条件に信じられるほどミハージィの人生は長くない。
「まだかな」
「そろそろじゃない?」
スーウェンはそう言って外を見た。行って帰って、馬を繋いで、男二人で道草もないだろう。どれだけと数えたわけでもないが、そろそろだと思える程度には時間が経っている。風に流れる足音もない、もう少し掛かるだろうか。
「もう少しかかるかもね」
ミハージィはそれとわからぬくらいに肩を落とす。両肘を立てて掌に顎を載せる。頬を少し膨らませてぷうと息を吐いて口を尖らせた。
「新しいの出そうか?」
籠の中にはまだいくつか果実が残っている。甘いものは間を持たせるには最良だ。誰も何も話す必要がなく、話そうと思えるほど美味しいなら話題に困ることもない。
「うん」
ミハージィは渋々といった風に頷いた。別にそれを嫌っているわけでもない。それでも、乾いていく一切れを諦めきれないのだ。
「選ぶ?」
「じゃあ、赤くてぼこぼこしたやつ」
ミハージィが籠を見ずに言った。スーウェンは言われたとおり籠の中から赤くてぼこぼこした果実を取り出した。赤は朱に近く、葡萄の房が全て繋がって一塊になったような形をしている。大きな苺のような、しかし表面に種はなく、毛も生えていない。触れると少し湿るような滑るような不思議な手触りだった。
「よく憶えてたわね」
ミハージィはそれについて何も返事をしなかった。少しだけ首を傾げて果実を見ている。テーブルの上に置かれているそれについて考えている。
「さあ、料理長、どんな風に切りましょうか」
スーウェンが柄にもないと思いながら言った。芝居がかった言葉、独りでは絶対に使わないような、少しだけ楽しさを感じながら。
「うーん。ちょっと待ってね」
「ええ」
ミハージィは果実をゆっくり持ち上げて入り口のほうへ向けた。微かに向こう側が見えるような気がする。房の尖ったほう、ぶら下がっているときに下を向いている部分が少し影が濃い。そこがどんな味なのかはわからない。一番美味しいのかもしれないし、一番美味しくないのかもしれない。食べにくいのか食べやすいのかわからない。
「葡萄みたいな感じだからゆっくり切って。ニンジンみたいな感じにこう、五つくらい」
「はいはい、こんな感じでいい?」
スーウェンは果実を器に載せて傷を入れていく。丁度ニンジンを輪切りにするような乱暴な切り方だ。違いは果肉が柔らかく汁気が多いこと。ミハージィの頷きを見ながらゆっくりと切り分ける。半透明の果肉から染み出る果汁は確かに葡萄のような感触だ。
「で、どこをとっておくの?」
「一番下の尖ったところ」
小皿に残った一切れの隣に違う一切れを置く。味が混ざってしまうだろうか、混じった味は美味しいだろうか。一緒に食べてみるのもいいかもしれない。ミハージィはしばらく最初の一切れを見ていた。
「一つ貰ってもいい?」
ミハージィは我に返って頷く。
輪切りにしたそれを四つに分ける。扇形の葡萄を囓る。それはまさに葡萄のような味だった。香りは甘く薄い。葡萄のような香りがする甘さなのかもしれない。控えめな甘さと葡萄よりも歯ごたえのある少し固い果肉、細切れになるまでかみ続けても飽きがこない。
「ずっと噛んでられそうね」
「これもおいしいね」
「当たりね」
「うん、当たり」
そんな二人を知ってか知らずか、男二人が帰ってきた。特に疲れた風もなくシャジーチはミハージィを見て笑った。男は相変わらず表情なく立っている。
「美味そうなのを食べてるじゃないか」
「はい、これおすそわけ」
ミハージィが小皿を差し出す。とっておきの二切れが載っている。
シャジーチは両方とも一口で食べてしまった。表情を緩ませミハージィを見る。
「いや、美味かった。有り難う」
「両方とも?」
「ああ、両方ともだ。特にこの赤いコリコリしたやつは最高だな」
「そっちはまだあるよ、まだ食べる?」
「一つ貰おうかな、夜はスープでもいいかい?」
シャジーチはスーウェンを見て言った。この分ではミハージィが晩ご飯を碌に食べないだろうと知っている顔だ。父親というのは一人娘に甘い。
「あなたは?」
スーウェンは男の方を見て言う。男は頷いて何も言わなかった。
シャジーチは扇形の葡萄を一切れ口に運んで今度はよくよく噛んで味わう。
「一番良いのを残してくれたんだな」
言いながらシャジーチはミハージィの頭を撫で、もう一度有り難うと言った。




