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「おじさんが狼に囓られたって本当?」
黄色の果実を囓っていたミハージィが思い出して言った。
スーウェンはそれをなぜ自分に聞くのかを不思議に思って首を傾げた。
「さあ、本当なんじゃない?」
首の付け根についた牙の後は薄いまでも残っていた。それは見たことがある。しかし、それが狼のものかはわからないし、聞いたこともない。
「お姉ちゃんなら知ってると思ったのに」
スーウェンは唇を噛んで鼻を鳴らした。
「そういうのは本人に聞くこと。それに、なんで私が知ってるって思ったの?」
「だって知ってそうだったし」
子供の考えを理解するのは難しい。落ち着いた今ならわかるような気がする。どうして、なんで、考えても答えは出ない。子供のころ考えていたことの大半はそんな風に流れていく。知らないことが多すぎた。できないことも。なにも知らないしなにもできない、だから考えない。経験が形を得るまではそんなものなのだ。何度も何度も繰り返した場面から同じものを見つけたとき、それが言葉になったときに初めて考えることに辿り着く。そんな気がした、多分、そんなものなのだろう。
「首のところに傷があるのは知ってるけど、狼のかはわかんないのよね」
「本当だったんだ」
「本当かはわからないって言ったでしょ。帰ってきてから見せてって聞いてみたら?」
「はぁい」
ミハージィは黄色の果実を食べ終えて薄い赤の果物をどうやって食べようか考え始めた。棘と言うほど鋭くはないが全体はトゲトゲごつごつしている。傾けると重さが偏って微かに水音がした。果実の下のほうに一つ膨れたトゲトゲが目を引いた。
「ねぇ」
「なあに?」
「これのここ切って」
「はいはい」
スーウェンは言われるままナイフを取り出した。
「このでっぱりの上のほうよね。このくらいでいい?」
刃を当てて切る位置を確認する。ミハージィは頷いて答える。
スーウェンはゆっくりとトゲトゲの周りに刃を入れていく。表皮は硬いが厚くない。内側にはあまり手応えがなく刃が通る。
「はい」
トゲトゲの先端を外してミハージィに返す。スーウェンは指先についた果汁を舐めて口をすぼめた。
「苦かった?」
ミハージィが心配そうな顔で聞いた。
「酸っぱ甘かった」
「じゃあ大丈夫だね」
ミハージィは欠けたトゲトゲの先端に口を当てて果実を傾けた。柔らかい粒々の混じった果汁が口の中を満たす。口を膨らませて目を閉じる。頭の向こう側に突き抜ける酸っぱさと後味の悪くない甘さが喉の奥に消えていく。
「ぷふぁ。すっぱあまかった」
「でも、美味しそうな感じだった」
「うん、おいしかった」
「当たりね」
スーウェンはナイフを収めながら果実の詰まった籠を見た。ミハージィにあげられる物はこんな物しかない。焼き物はシャジーチに渡さなければならないし、この年頃の自分を考えても焼き物は欲しくない。人形でも焼こうかと思ったけれど割れてしまったら悲しいし、なにより重い。旅の邪魔はしたくない。少し多めに取ってきた果物達で当たり外れの食べ比べが当たり障りがない。もっとも、外れはほとんどないけれど。
「お姉ちゃんも飲む?」
「そういうのはナシ」
「おいしいのに」
ミハージィは言いながら果汁をちびちびやった。口の中に二つ三つ残った粒々を舌先で転がして一つずつ口蓋に押しつけて潰す。粒の中身は蜂蜜のようにドロリとして甘い。果実の中に残った粒をどうにか取り出せないかと思案する。
「貸して」
ミハージィは果実をスーウェンに手渡し、スーウェンは果実を丁寧に切っていく。中の液体が零れないように気をつけながら上半分を切り取り、皮に残った果肉を食べやすいように小分けにして皿に並べていく。切り取った下半分にスプーンを入れて返す。
「ありがとう」
「いいえ。その粒々が美味しいの?」
「どっちもおいしいよ。つぶつぶは蜂蜜みたいな感じ」
「どろっとしてる?」
「そう」
「一つ貰おうかな」
「じゃあ、はい」
ミハージィは一掬いのつぶつぶを皿の上の果肉に乗せた。
スーウェンは果汁を零さないように口に運んだ。果肉は柔らかく解れ、果汁が染みこんでいる。口蓋に押しつけて混ざり合う美味しさはしばらく出会えなかったものだった。
「父さんも早く帰ってこないかな」
「分けてあげるの?」
ミハージィは照れるように笑いながら答える。
「えへへ、なくなる前に帰ってきたらね」
「そうね」
スーウェンも釣られて笑った。他愛ない遣り取りに救われているような気分になる。そこには気むずかしい遣り取りはなく、思い出して辛い過去もない。誰かが誰かを気遣っていて、自分もそれに触れているのだという安心感。孤独でない穏やかな時間。自然とシャジーチの帰りを心待ちにしている自分に気付く。ミハージィの願いが叶えばいいのに、そうしてもっと笑ってくれればいいのに。
表情が消えるのを感じる。昔を忘れられないから他人の笑顔を欲しがる。自分の嫌な部分を真っ直ぐに見そうになる。俯いた視線をごまかすように一切れつまんで口に放り込む。
「早く帰ってこないかしらね」
「ねー」
言いながら、スーウェンは笑えない自分を見ていた。




