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 女は迷い無く森を進んだ。男は女の背中を追い、何度も木の根に躓きながら追い縋った。

進むにつれ疎らな木々は皆一様に高く苔生し、進むほどに威容を増した。

 森の狭間、天鵞絨の霧を抜けた先。大樹の森。塔を思わせる大樹の群れ。吠え、駆け抜ける風。砕けた枝の渦が足下に広がっている。

 大樹の群れの中で女は立ち止まり風を聴いた。進み、立ち止まり、また進む。男は同じ景色の中を無限に歩いていた。女の背中だけがこの森の中で見分けられる全てだった。男は無私の中で女の背中をただ眺めていた。枝を踏み割る音も聞こえはしない。


 見失う。突然の暗闇。男は立ち止まり、立ち尽くした。

 大樹の洞。足下を伸びる白い光。

「……いでしょう?」

 男には女の言葉が聞き取れなかった。暗い? 狭い? 広い? そのどれもが当てはまる。そしてそのどれもが、男にとってどうでもよかった。或いは違う言葉であっても。女に付いてきたこともなぜだかわからない気紛れに過ぎなかった。風に流れていた男の手を少しばかり女が引いた、それだけのこと。男は黙って頷いた。

「驚かないで」

 女が願うように言い、炎が宙に泳いだ。蛇のような炎が女の周りを赤から青、青から白、そして柔らかな橙に変わり、火の玉となって少し離れた所に浮かんだ。

 大樹の洞は広く、照らされた家財は女が長く住んでいることを暗に語っていた。洞の中は丁寧に石敷きされていて湿った感じはなかった。脚高のベッド。シーツはきれいに整っているが、毛布は軽く折られたまま。飾りのない椀のような浴槽、或いは水瓶、には水がなみなみと注がれている。木のテーブルは小さく、それに似合う可愛らしい椅子。テーブルの上には大きな栞の挟まれた本が数冊立てられ、そのうち一冊は取り出され横になっていた。隣に置かれた籠の中には果物が二つ、赤いものと黄色いもの。

「食べる?」

 女は赤い果物を差し出す。男は受け取らない。

「黄色いのは少し苦いから」

「いや」

 男はただ一言返した。女を疑っているわけではない。単に食べることを忘れてしまっていた。もう長いこと何も食べていない。空腹を感じてもそれで死ぬでもなく、飢えに苦しむでもない。そう思っただけのことだ。

「そう」

 女は小さく頷いて赤い果物を囓った。しゃくしゃくと噛み砕く音が響く。椅子に腰掛け、男が動くのを待った。ベッドに腰掛けるか、石の上に座るか。壁により掛かるのか、椅子を空けたほうがいいのか。女は男を見ている。男のことを知りたかった。

 男は立ち尽くす。森の中で倒れているのと変わらない。立っているにしろ座っているにしろ、姿勢に拘わらず痛みが意識を締め上げている。男の意思とは関係なく右足が踏み出した。ここでないどこかでなら穏やかでいられるとでも思っているのか? 男は右足に問いかける。しかし、そんな疑問は痺れや火照り、意識の中を跳ね返り続ける釘のような衝撃と煩わしさに掻き消された。

 左足が踏み出す。男は緩慢な動きで洞から出て行く。女はそれを追い、炎は霧のように消えた。洞は再び暗く、空は澄んでいた。雲は遠く、太陽がじわりと染みる。風は背筋を軽く震わせる程度には冷たく、木の葉は乾いた手で頬を撫でる。

 男にはただ冷たく、眩しい。

 枝を踏み割る音を聞いた。乾いた枝が砕けている。皮も肉も、一様に白けた木片でしかない。森に敷かれた一面の死。男は木の枝のような自分を思い返す。横たわり、いつしか踏み割られる。腐り、渇き、何者かに踏み割られたとき初めて目に止まる自分を。


 白い獣の骨


 同じように倒れた誰かを思う。彼ら彼女らも痛み苦しんでいたのだろうか。苛む感覚を呪いながら歩んでいたのだろうか。考えながら男は小さく首を横に振った。男にとって痛みは苛むものではなく常にある感覚であり、時折やってきては去っていくものではない。傷と共に増え、減ることはあっても無くなることはなかった。苛まれている自分がどんなものなのかすら曖昧だ。鏡合わせの向こう側のように自分と痛みが無限に重なり合っている。眺めれば眺めるほど、痛みと自分がわからなくなる。それを見ている、感じようとしている自分がいることを感じずにはいられない。自らすら定かでないのだ、世界の何が理解できるというのか。痛みとは、自分とは、ましてや他の誰かなど。

 朦朧とした意識の中でどれだけ歩を進めたのだろう、何度か倒れただろうか。気付けば周りに塔はなく、小高い丘に果樹園が広がっている。柵らしい柵もなく見張り番もいない。それにしても果樹園と感じられるのは整然とした木の並びのせいだろう。どれ一つとして枝を付き合わせることもない。日を浴び、風に揺れている。赤や青、黄や緑、それらが混ざり合ったもの。大小様々で形も各々違う。歪んでいるような曲がっているような、或いは箱に詰めたかのような。つるりとした皮から棘のついたもの、ざらりとした分厚さを感じるもの、毛玉のようなふわりとした外観。色々な果樹が育っているのではない。色々な果実が一つの木に実っている。同様に木陰には様々な果実が腐り落ちていた。

「珍しいでしょう?」

 いつの間にか真横にいた女がそう言った。男は揺れる枝を見ながら小さく頷いた。女は木陰に屈み、ローブから零れた髪を掻き上げながら腐った果実に手を伸ばした。爪先で種を探り、襤褸布で拭いてから首根のフードへ転がす。フードの中には既に三つほど種が転がっている。それはやはり大きさも形もまちまちだった。

「種を集めてるの」

 女は一瞬の俯いた視線の後、なにかをごまかすように小さく笑った。馬鹿馬鹿しさや恥ずかしさをごまかすような笑いではなく、どこか寂しげな自嘲するような笑顔。

 男は女の顔を黙って見た。静かに、表情もなく。

「ここの木、いろんな果物がなるんだけど」

 女は目を逸らし、右左と目を泳がせた。まるで逃げ場を探すかのように。やがて男が表情一つ変えず立っていることに気付き、それと気付かぬほど小さく頷いて続けた。

「魔女の――木って呼ばれてるの」

 男には怯える女が魔女のようだとは思えなかった。魔女だからこそ怯えているのだろうか、それとも、魔女ではないから怯えているのだろうか。或いは、魔女に怯えているのだろうか。迷い込んではいけない場所、禁忌の果樹園だったとでもいうのだろうか。だとすれば女はなぜ付いてきたのだろう。種を集めているとはどういうことなのか。

「時々立ち寄ってくれる商人さんがいてね、種を買ってくれる。良い値が付くんだ、って」

 女はそうやって生きているのだろう。果物を食べ、果物の種を売る。商人がどんな人物かはわからないにしても、それなりに誠実ではあるのだろう。女は生きている。

 男は女がなぜ自分に関わってきているのかわかったような気がした。ここに立ち入られたくなかったのだろう。女が生きていく糧がここにはある。それは秘密でなければならないし、秘密であって欲しいと願うのも無理はない。

 面倒なことになった。男は考えながら俯いた。秘密を知ったという事実が途方もなく面倒だった。自ら語ることはないにしても、語られなかったと女が知る術はない。どうにかこうにか口説き文句を考えようと首を傾げ、痛みに顔を歪めて止めた。

 どう転がるのか見ているのも悪くない。自分以上に面倒な物などないのだ。この女が魔女だったとしても、だからなんだというのだ。死の向こうがどうなっているのかは知らないが、苦しみや痛みとは常に抱き合っている。女に殺されるのならそれもいいのかもしれない。女が魔女だというのなら、あれだけ乱暴に扱われても壊れなかった体を壊してくれるかもしれない。たとい普通の女であれ、試してみるのも悪くはない。

「あの家、気に入らなかった?」

 女は怯えながら言った。何に怯えているのか、男にはわからなかった。

「いや、良い所だ」

 世辞というわけでもなく、手放しでの賞賛でもない。悪くはない。不自由しない食料があり、静かで日当たりも良い。自前で灯りを用意できる女だ。本を読む余裕すらある。その日暮らしですらない男からすればそれ以上の言葉はなかった。

「でも、寂しいところでしょう?」

 俯いた女の言葉。寂しいのは女だ。

「よかったら――しばらく一緒に」

 女の怯えが理解できた。断られることに怯えていたのだ。



 風に吹かれた草玉が木の根に止まる。特別なことはなにもない。

  



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