29
29
シャジーチは馬達を草場に繋いで振り返る。男には馬を引くこともできない、単にそう思えるのは不思議な感覚だった。村の男なら誰でもできるようなことができない。知らぬ人が見れば呆れ、情けないと言う者もあるだろう。知っている、体験しているということには大きな価値がある。馬は倒れるだろうか、それとも、暴れるだろうか。動物というのは、特に野生に近いなら尚のこと痛みに敏感なものだ。痛みを極力感じることのないように、怪我をしないように神経を尖らせている。確かに綱を引くことはできるだろう。しかし、馬を引くことはできない。彼らは生きている。それは紛れもない事実だ。触れて初めて信じることを始められる。ただ離れて歩くだけでは駄目だ。
狼さえ、狼ですら、男を喰うことはなかった。
馬に感情があるだろうか、それに似た衝動でもいい。人のそれだけを感情と区別することができるだろうか。シャジーチは自身の感じた怒りを思い出す。理由も前触れもない痛み、それが痛みだと感じることすらままならないような痛み。馬達も怒りを感じるだろうか。感じるのなら、それは避けたほうがいい。馬に嫌われる旅人は蹴られて死ぬ。珍しくもない教訓。人と馬がつきあい始めて以来逃れ得なかった法則。
馬達は鼻を鳴らし頭を垂れる。草を食み、時々男のほうへ顔を向けて臭いを嗅ぐような仕草を見せる。男は少しばかり頭を傾けて返す。触れることのできる距離で触れ合うことのない関係。それぞれがそれぞれに気遣い、間を開けているように見える。
シャジーチは馬の怒りを恐れながら、それが起こらないことを期待していた。なんとなく上手くいく気がした。それを証明したいと思ったのかもしれない。
「触らないんだな」
「え?」
男は話しかけられたのが意外な様子でシャジーチを見て声を漏らした。
「いや、馬に触るかと思ってたんだよ。馬が暴れたら困るだろ? まあ、お前さんが蹴られて死ぬのも困るが、巻き添えは御免だ」
「ああ、もう少し離れたほうがいいですね」
男は言いながら綱が伸びきっても届かない距離まで下がった。馬達は相変わらず草を食み、それでも少しずつ男のほうへ近づいているようだった。やがて馬達の鼻先が擦れるような距離まで来たとき、馬達が真っ直ぐ男の顔を見た。なぜ自分達に触れないのかと問いかけるように右左と首を傾げ、鼻を鳴らして踵を返した。
「嫌われてるわけじゃないみたいだな。撫でてやったらどうだ?」
シャジーチは冗談のつもりで言った。誰が怪我をしても困る。信頼できる馬を失うのは大きな損失だ。
「触ってみたい気もしますけどね」
男はそれ以上何も言わなかった。それがどんな結果を生むのかはわからない。しかし、これまでの経験を思えば痛みと拒絶、恐怖が残るだろうというのは想像に難くない。
男の視線は馬に向けられていた、好奇心を自ら殺し、悲しく、寂しいのだと語るのに十分な視線だった。涙こそ流れてはいない。シャジーチはそんな男を見て目を伏せた。
「戻りましょう」
「あ、ああ」
暫く、それがどれだけの長さだったのかはわからない。男は馬を見ていた。シャジーチはそれだけを憶えている。どんな時間にも終わりはある。寂しげながら温かい平穏。時折吹く冷たい風も冷たすぎると震えることはなかった。
木立の影を歩く。冷たさが首筋を撫で、シャジーチは口を開いた。
「なんで触らなかったんだ?」
こんな寒い日に馬と寄り添っているのは温かい。自分の腕を擦りながら思い出す。撫でてやればいい、ミハージィは平気だった。狼が逃げたとしても。馬が平気でないとどうして言える。馬も撫でられることを期待していた。
「狼の牙よりも鋭いもので触れようとは思いませんよ」
「そりゃあ、まあ、そうだが」
狼の牙よりも鋭い。それでも、誰も傷ついてはいない。血を流してもいないし、肉を削がれることもない。湧き上がる怒りを乗り越えればわかりあうことができるはずだ。
「ほら、ミハージィも平気だったろう。俺は駄目だったが」
「ええ」
「そういやあ、なんで平気なんだ?」
男は立ち止まり、暫く俯いて少し上を見た。まるで答えが漂っているかのように眺め、大きく息を吸って吐いた。
「そうですねえ、触り方が上手い、とか」
シャジーチは腕組みをして首を傾げた。
「尖った部分を押しつけると痛いでしょう?」
「お前さんが尖ってるって?」
「まあ、例え話ですよ」
「ますますわからんな」
なぜミハージィが男に触れても大丈夫なのか。男は知らぬふりをしながらもこの話を続けたかった。ミハージィのいない場所で気付くのならそれが一番いいだろう。幼子の隠し事を問い詰めるというのはあまり良い気分ではない。
痛みがない、ということは理解しにくい。それは逃れたいものの一つであるし、なければよいと多くの人は思っていることだろう。そして恐らく、ミハージィに問い詰めても答えは返ってこない。ミハージィは痛みを知らない、なにがどれだけ痛いのか、痛いという言葉を理解できない。痛みに関わる言葉で語ることができない。
ミハージィにとって痛みとは他人の流れる血であり、剥がれる皮であり、抉れ落ちる肉なのだ。叫びや涙、痙攣と硬直。あるいは、それくらいのことには気付いているのかもしれない。自らの体が引きつり、思うように動かないことがあったかもしれない。
生きている奇跡
ミハージィがどれだけ丁寧に世界と触れ合っているのかを考えるとある種の虚しさが込み上げてくる。世界を見ているつもりの我々は恐らく何も見えていない。
「ナイフのどちら側に指を押しつけたら血が流れるとか、そういう話かもしれない」
「お前さんに触っても傷はどこにもついてないじゃないか」
「それでも痛いものは痛い、でしょう?」
「まあ、そうだな」
シャジーチは気付くだろうか、傷が痛みではないということに。それは偶然重なっているように見える違うものなのだと。それとも、当たり前すぎて口に出すまでもないことなのだろうか。ミハージィは自分ではない、それだけのことに気付くだろうか。
ミハージィにとって傷は痛みだ。それだけが知ることのできる全てだ。




