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特別な人間などいない。
少なくとも、多くの人はそう思っている。そして、特別でないからこそ、自らを形作るものが全ての人に備わっていると信じている。それがないことなど想像することもできず、ただ信じているのだと感じることもない。
普遍の信仰。
そしてそれが不可知なら尚のこと。目前に置かれてもそれとはわからない。
たとえそれが実の娘であっても。
スーウェンは吐いた言葉を呑み込んでしまいたかった。男なら何か言うはずだという信頼が言葉に滲んでいた。しかし、父親に語るには、それを他人から教えられるのは、なんと情けないことだろうと思い至るには遅かった。娘を見る父親として怒りを、屈辱を感じずにはいられまい。その怒りがどこへ向かうのかはわからない。あるいは屈辱などないかもしれない。それでも、男は父親を信じたのだろう。いつかわかる時がくると。
「本当に私のことを聞いたりはしませんでしたか?」
それがスーウェンの考えた精一杯のごまかしだった。男はなにも言わなかっただろう。既に面識があることも、おそらくミハージィには痛みがないのだということも。そう考えながら、かの神が寄越したろくでなしであることを心配している憐れな女を演じていた。
「ああ、森の中で倒れてたんだ。教会の道具もなにもない。あの格好のままさ。審問やら処刑ってのはもっと大仰にやるもんだよ。見せしめだからな」
シャジーチは言いながら目を伏せた。それを恐れる者の前で話すようなことではないだろうと思えたからだ。しかし、他に言い方があるとも思えず首を横に振った。
「そうですよね」
スーウェンは言いながら男の方を見た。以前と変わらぬ格好で倒れている。あの痛みは今も男の中で渦巻いているのだろうか。それとも、眠りの中だけは穏やかでいられるのだろうか。考えながら男の痛みと私の痛みは同じものなのだろうかと思い当たった。男はいつも涼しい顔をしているように見える。それが私にとっての激痛で、男にとっては耐え難い痒みのようなものだとしたら?
スーウェンは小さく首を横に振った。たとえそれが取るに足らない痒みのような感覚であったとしても、自分なら顔を歪めるだろう。少なくともそれを涼しい顔でやり過ごすようなことはしない。なにより、私の取るに足らない痒みが男の耐えられない痛みであるかもしれないのだから。ミハージィはどう感じているのだろう。男の顔や手をしきりに触れる辺り、なにかを感じているのは間違いない。
「大丈夫。心配しなさんな」
スーウェンは頷く。シャジーチの言葉にではない。閃きがそうさせる。ミハージィの感じているものが痛みとは限らない。それは居心地の良いものかもしれないし、真新しく気を引く何かなにかもしれない。『痛み以外の感覚』を感じているのかもしれない。だとすればミハージィの触れる最初の、唯一の世界がそこにあることになる。単なる推測でしかない閃きがスーウェンの胸を躍らせる。シャジーチに伝えたい。ミハージィに確かめてみたい。のど元にせり上がる好奇心を噛み殺す。
シャジーチはスーウェンを見かねて立ち上がり肩を叩く。
「行こう。休憩は終わりだ」
「あの人を置いていくんですか?」
シャジーチは肩を竦めて首を傾げた。完全に男のことを忘れていた。
「どうしたもんかね。ま、あの子に聞いてみよう」
シャジーチはミハージィに近寄りながら声をかけた。
「どうだ、起きそうか?」
ミハージィはゆっくりと顔を動かしてシャジーチのほうを見た。頬を膨らませて小さく首を振る。ぷーっと吹いて答える。
「ぜんぜん」
シャジーチも大きく息を吸って吐く。
「置いてくか」
「えー」
「なんだ。嫌なのか?」
「いやー」
「ってもなあ」
シャジーチは頭を掻きながらスーウェンを見た。良い案はないか? そんな視線だった。
スーウェンは腕組みして少し考えて言った。
「ねえ、ちょっとほっぺた叩いてみてよ」
ミハージィは口を尖らせて目を逸らした。
「お願い」
「ちょっとだけだよ」
ミハージィは自分の掌をじっと眺め、決心を固めて男の頬を叩いた。音も鳴らないほど遅い平手打ち。
「もう少し強く」
「えー。やだー」
「じゃあ、ほっぺたをつまんで、こう、むにむにっと」
「んー。それならいいよ」
ミハージィは言われるまま男の頬をつまんで方々に動かす。硬い表情が普段ではありえないほど歪み、なんとも間抜けに見える。ミハージィはそれを見て表情を緩ませ、ミハージィを見て二人の表情が緩む。
「楽しいか?」
「うん」
「まあいいか。俺は先に行って荷物を下ろしてくる」
「わかりました」
「はーい」
シャジーチは馬車へ向かい、洞へ向かって見えなくなった。
スーウェンは火を泳がせて寒さを和らげる。ミハージィの傍に屈み込んで言う。
「ねえ、内緒の話してもいい?」
「なんのはなし?」
「もしかしてなんだけど」
「もしかして?」
「痛いってわかる?」
ミハージィは目を伏せて黙る。男の頬をつまんだ手も止まってしまった。ずっと内緒にしていた秘密を誰かに知られた不安と悲しさ。誰もが時々口にしては泣いたり悔やんだりするその言葉を理解できない寂しさが見て取れる。
「わからなくてもいいの。ただ、知りたかっただけ」
スーウェンは言いながら寂しげに眉をひそめた。好奇心のためだけに誰かを傷つけることになるなんて考えもしなかった。
「ごめんね」
「うん。いいよ」
「もう一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「その人、どんな感じがする?」
スーウェンも触れたことは何度かあった。しかし、触れたのだというぼんやりとした実感しか残らなかった。吹き荒れるなにかが意識を沈めてしまう。それは痛みなのだと信じてしまう。それ以外に説明できる言葉がないから。きっとミハージィもそうなのだろう。
「わからないの」
「そう。私も触ったんだけど、わからないの」
「お姉ちゃんも?」
「うん。でも、秘密にしてね」
「わかった」
わからない。二人の繋がりはわからないこと。今のところは二人だけの秘密。
スーウェンは頷いて近くの木に背を預ける。ミハージィもそれに倣った。
似ているようでなにもかも違う。わかっているのは、わからないことだけ。




