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スーウェンは身を屈めて馬車の周りをゆっくりと歩いて回った。馬車には誰もいない。荷物はそのまま。馬も特に怯えたりはしていない。争ったような跡もない。二人はどこへ行ったのだろう。こんなところで追い剥ぎに遭うとも思えない。用を足しているか、食事の時間か。それにしても馬車が見える場所だろう。遠くに行く理由もない。
二人が馬車を離れる理由がない。そう考えると同時に、スーウェンは男の姿を思い浮かべた。森の中を彷徨う男。旅をしているようにも見えず、迷っているようにも見えない。まるでそこに生きている、そうして生きているような男の幻。
あるいは、森の中で倒れていたら?
森の中で倒れた男を見過ごすだろうか。普通なら、あの二人なら。あの男を見捨てるだろうか。見捨てられるだろうか。
いつの間にかスーウェンは立ち止まり、俯いて目を閉じた。冷たさがのしかかるように重く、弱々しく息を吐く。疲れている。普段と何も変わらないというのに。少しばかり歩いたからといって弱音を吐くほど衰えてはいない。
「わ!」
全身が震え、締め上げられるように固まる。息ができない。溺れるような感覚。水面から顔を出して必死に息を吸うような肺の震え。胸を押さえて振り向き、ミハージィの顔を見ながら溜息を吐く。
「びっくりさせないで」
「おどろいた? ごめんねー」
ミハージィはスーウェンの驚きに満足していた。大袈裟な表情でないにしても、それはスーウェンにも感じられた。顔つきから幼さが消えつつあり、以前とは別人に見える。それほど違うと感じながら同じ女の子だと思うのはなぜだろう。他の誰かをよく見るということがなかったからだろうか。それでも、ミハージィは元気そうに見えた。
「元気そうね。おじさんは?」
「あっちだよ」
ミハージィはゆっくりと、注意深く指先を動かしてシャジーチのほうを指差した。木に背を預け、あぐらをかいて座り込んでいるシャジーチが小さく手を振っていた。スーウェンも小さく手を振って返し、変わらないシャジーチを思い出と重ね、ミハージィはやはりミハージィなのだとなんにともなく頷く。
「ねえ」
ミハージィが何かを頼みたい時の声。思えばしっかりした女の子だったなとスーウェンは思い出す。あれやこれや、時には食べ物や果物にすら触れてもいいかと尋ねてくる。
「なあに?」
「手を貸して」
「手?」
「どっちでもいいから貸して」
スーウェンは首を傾げながら右手を差し出す。ミハージィは小さな両手でゆっくりと包むように触れた。少しばかり揉むようにしたあと、すっと手を放す。
「うーん。ありがと」
「なにかのおまじない?」
「おまじない……おまじない!」
ミハージィは少し迷い、頷いてそう言った。そして男のことを思い出してゆっくりと人差し指で合図をした。
「あっちあっち」
「なにがあるの?」
「男の人!」
スーウェンは思わず口を少し尖らせ、視線を左、右と泳がせた。まさか本当に出会っていたとは思わなかった。出会っているような気がしていたけれど、出会ってはいないだろうと打ち消していた。どんな顔をすればいいのだろう。どんな言葉をかければ自然だろう。シャジーチとはどんな関係を築いたのだろう。馬車に撥ねられたりしていないだろうか。
「先におじさんに会っていくわ」
「わかった!」
ミハージィは手を振って男のほうへ歩いて行った。シャジーチが止めず、ミハージィが自分から会いに行くのだからそれなりに良好な出会いがあったのだろうと思い胸を撫でる。シャジーチはなぜ木に背を預けているのだろう。食事でも休憩でもない。馬車を降りて座りたいと思ったのだろうか。
「お久しぶりです」
「ああ、変わらないな。元気にしてたかい?」
「ええ。元気にしてましたか?」
「お互いあまり元気じゃないみたいだな」
シャジーチはそう言って鼻を鳴らして笑顔を見せた。
「どうも疲れたみたいで」
「そうだな。こっちも疲れたんだろう。面白い男を少し前に拾ってね」
シャジーチが向いたほうには男が倒れていた。ミハージィが顔をこねて遊んでいる。
「ずいぶん懐いてるみたいですね」
「ああ、悔しい限りさ。あいつは馬車から落ちたんだが、それきりでね」
「馬車から?」
「ああ。椅子でうたた寝する時とか、ほら、よくあるだろ? ガタッとなるやつ。あんな感じで馬車から落ちてね」
「手当はいらないんですか?」
「いや、手当どころか傷の確認もできん」
スーウェンは一瞬、確かにと頷いた。触れることもできないのだから。しかし、それをここで表に出すことはやめようと思いとどまった。きっと男はなにも話さなかっただろう。不思議な信頼感があった。
「病気とか?」
「いや、不思議な男だ。嘘だと思うかもしれんが君も、そうだな。そういう感じだ。人ならざる者の加護。あるいは呪いの類。あいつはとにかく、憶えてられないくらい痛い」
「痛い。ですか」
「ああ。どうも俺は倒れたらしい。そん時は何も憶えてなかった。起きたらなんというか、癇癪を起こしたみたいでね。あいつを殴りつけてやりたい気分だった。今はなんでそんな気持ちだったのかも思い出せない」
「痛いから触れない」
「そうだ。触りたいと思うだろうが、あれだけはやめたほうがいい」
「でもミハージィは触ってますよ?」
「ああ、不思議だな。どういうわけか大丈夫なのさ」
シャジーチは言いながら心の中で呟いた。あいつの手は俺の手より上等なのかもな。どういうわけかあの子のお気に入りだ。情けねえ。
「あの男はなにか言ってませんでしたか?」
「いや。なにも」
スーウェンは考える。
「本当に?」




