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 シャジーチは倒れた男で遊ぶミハージィを見ながら座っていた。木に背を預け、丁度、少し前に男が座っていたように座っていた。男は何も語らずとも娘を抱くことができた。その事実が不思議でならなかった。父親を父親と思っていないのだろうか、あるいは、自分には人としての魅力がなくなってしまったのだろうか、シャジーチは涙の溜まるような痺れを堪えて細く長い息を吐いた。

 息は微かに白く、すぐに消えた。

「ミハージィ」

 シャジーチは少し大きな声で呼んだ。ミハージィは振り返って次の言葉を待っている。

 なんと言えばいいのだろう。ミハージィがそっぽを向いてしまう前に言葉を続けなければならない。商売の話ならこんな風に戸惑うこともないのに。

「……こっちにきてくれ」

 ミハージィは小走りで駆け寄る。目の前で立ち止まり、首を傾げて次の言葉を待っている。シャジーチには今にも振り向いて男のほうへ駆けていってしまいそうに感じられた。

「話をしよう」

 ミハージィは小さく頷いて答える。

「なんの話をするの?」

 シャジーチは男の上に座っていたミハージィを思い出し、一瞬だけ俯いて両手を差し出した。ミハージィは伸ばされた手に触れ、シャジーチはゆっくりと引き寄せる。シャジーチはあぐらの上にミハージィを座らせて抱きしめる。右肩に顎を乗せるようにして柔らかい髪に頭で触れる。ミハージィはされるがまま、次の言葉を待っていた。

「あいつと何を話したか教えてくれないか」

 ミハージィは色々考えるような素振りで唸った。頭を傾けたり少しだけ上を見たりした。シャジーチはミハージィを見ていた。娘が嘘をついていないか、自分が信じられるだけの反応が見たかった。何も語らない男になぜあんなにも懐いていたのか、それが知りたかった。できれば、何も話していないということが嘘であって欲しかった。子供向けの甘い嘘が上手な男であって欲しいと思った。毒にも薬にもならないような。

「どうやって父さんを倒したのって聞いて……」

「それで?」

「なんにもしてないって」

 シャジーチは倒れたときのことを思い出そうとした。しかし、暗い靄が目の前に広がったことくらいしか思い出せなかった。倒れる前に握手をしようとした。起き上がって、怒りを感じた。それがなぜで、どんな感情だったのか思い出せない。

「他には」

 ミハージィは動かず、坦々と答えた。思い出していることしか見えていないかのように。

「寒くないか、痛くないかって聞いた」

「あいつはなんて言った?」


「痛いし、冷たいって」

「それだけ?」

「うん」


 シャジーチにはミハージィが嘘をついているようには思えなかった。そうであって欲しいという願いでもなく、シャジーチの歩んできた人生が嘘を感じられなかった。それでも、娘が自分の手を握りかえしてこないことを悲しくも不思議に思った。あの男の手と何が違うというのか、触れることに飽きるというほど手を握ってはいない。仮に飽きたのだとしても、こうして握った手にあまりにも力なく、為すがままであるのはどういうことなのか。手持ち無沙汰でないという話であればと思い、そんなはずがないと目を伏せる。

「父さんの手は嫌いか?」



 ミハージィは真横にある父親の顔を見ようと首を動かした。寂しげな父親の顔を見て戸惑い、その言葉の意味を理解しようと首を傾げた。

「手?」

「ああ」

「考えたことなかった。父さんは父さんだし」


「そうか」


「父さんは好き」

 ミハージィはそういって正面を向いた。朧気な母の影を思い出し、たった一人の家族だからと思い直す。母の影をどんな気持ちで見ればいいのかわからずに目を閉じる。思いに浮かんだ母の影は消えない。目を開け、父の手を見る。

「でも、父さんの手はわかんない」

「ああ、そうだな」

 シャジーチは自分の言葉をやっと飲み込めた気がした。大人の嫉妬が滲んだ言葉では通じない。独りよがりな言葉で話すことはできない。子供との会話に押し引きはない。無知に対する寛容とごまかしの利かない誠実さだけが彼らの言葉だ。

「お前はあいつのどこが気に入ったんだ?」

 気に入った、というのは少し違うかもしれないとシャジーチは思った。気に入ったからといって顔や手を捏ね回すなんてことがあるだろうか。確かに触れ合っていたい相手というのはあるにしてもミハージィはまだ子供だ。それに、そういう触れ方だとも思えない。

 ミハージィは俯いて黙り込んだ。

 シャジーチは口を噤んだ娘から色々なことを読み取っていく。

 思い出そうとしているのとは違う、言い逃れや気恥ずかしさを感じているでもない。言えないことがある。それは内面的な問題で、相手との関係を気まずくする話だ。男に恋をしたなんて話じゃあない。

「なんて言えばいいかわからないのか?」

 ミハージィは困った顔で頷いた。少し間を開け、ぎこちなく二度。

 なんと言えばいいのかもわからないし、他にも言えないことがある。

「そうか……」

 これ以上聞くことはできないな。迷いのある頷きは不安の表れだ。怒らせるかもしれない、悲しませるかもしれない、わかって貰えないかもしれない。確かに、物分かりのいい父親ではなかったな。もしかしたら荒れているところも見られたのかもしれない。苛々して酒を飲んで酒を飲んで苛々して、椅子を蹴飛ばしたこともあったっけ。

 シャジーチは上を向いて息を吐いた。白い息が伸び、先ほどよりも少しだけ長く漂って消えた。寒空で娘を抱いている。急にその事実が身に染みた。全てを失ってここにいるような気がした。娘だけが残された全てなのだと実感した。

「キナー……」

 シャジーチは小さな涙を流した。冷たさがそうさせたのかもしれない。涙は溢れることなく、一筋伝って乾いていく。呟いた妻の名前はあまりにも小さく、声に出たのかもわからない。ミハージィの頭に額を押しつけ、教えてくれと願った。


「スーウェン」

 シャジーチはミハージィの呟きに顔を上げる。確かにスーウェンだった。止まっている馬車に首を傾げながら慎重に辺りを見回している。

 ミハージィはシャジーチを見た。

「ああ、呼んできてくれ」

 シャジーチが手を放すとミハージィはスーウェンのほうへ身を伏せて近づいていった。立ち上がり、尻に付いた土を払いながら男の方を見る。男は死んだように眠っている。あるいは、本当は死んでいるのかもしれないと思えた。



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