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躓き、倒れ、転がりながら男は進む。痛みは呑み込むほどに膨らみ続ける。ぼろぼろの服は土にまみれては穴が増え、木の葉や花、色々なものを巻き込んでいた。割けた手の甲から流れるものは辛うじて赤く。日を浴びるにつれ黒く変わっていく。山の中、川の傍、街道の昼夜を問わず。物珍しげに見るは畜生と人の別なく。
どれだけ歩いたのか、季節の巡りを感じるほどの長い時間。花が咲き、散り、木の葉を踏み割り雪に呑まれた。やがて緑は燃え、木の葉が森を埋める。
天鵞絨の暗闇に包まれた森の中、枝で頬を裂き、倒れては額を割る。何度目かの後に、男は穏やかに倒れている自分を見ている。
思い出すように天を仰いでいる。
枯れ葉の上の孤独と落ちる木の葉の静寂。騒がしい痛みに包まれている自分を眺めている。枝葉の隙間から零れる光は弱々しく、薄ら寒い靄のような雲が高いところに見える。
風が強く吹き、木々がざわめく。木の葉がつむじに舞い、女の顔が浮かんだ。漆黒の髪が天鵞絨の闇を撫でるように揺れ、それらに溶け込むような濃紺のローブがふわりと浮いた。女は鼻を鳴らすように小さく笑い、男のほうへ歩み寄る。哀れみの満ちた瞳が品定めをするように小さく上下し、肩を竦めて首を傾げる。下唇を僅かに突き出すようにして戸惑いながら口を開いた。
「あなた……どちらさま?」
女は男に問いかける。
旧知の友人によく似た誰かに確認を取るようなそれ。沢山のことを知っているようでまるで知らない。見た目に現れる類似から断片的に理解できる経験知の再確認。
この男は死んでいる。生きているはずがない。この男は知らない誰かなのだ。女はそう考えて俯いた。女の知る男はこんな時に黙っていられない落ち着かない男だった。物静かで、穏やかで。いつの間にかどこかへいってしまって、女も遠く離れてしまった。
男は応えない。ぼんやりと女の向こう側を見ている。
女の容姿は暗闇に浮かべれば気味が悪いと思えるほどには美しく、一度見れば美人だったと思い出せるだろう。忘れてしまったとしても、美人とはどこかでであっただろうと思うものだ。しかし、男の目はただ虚空を漂っている。
木の葉の上に横たわる男の傍に膝をつき、女は遠慮がちな視線を向ける。泥や血にまみれた男は不思議と臭いが無く、傷んだ服や磨り減った靴ほどには見目汚いところはない。髪も髭もそれほどに伸びてはおらず、肌が酷く傷んで見えるということもない。歩んだであろう旅路の長短を読み解くことは難しかった。ただ、磨り減った諸々が決して平坦な道ではなかったと語っている。
女は膝を折り、木の葉の上に腰掛けた。乾いたそれが割れる音が微かに鳴り、風が大仰に森を鳴らす。女は首を傾け、横目で盗み見るように男を眺めた。舐めるように、撫でるように。剥がれかけの瘡蓋や治りきってうっすらと白い肌に目を奪われていた。男が誰であるのかという疑問はどこかへ消え去り、男はなぜここにいるのかという疑問が考えを埋めた。旅の途中で倒れたのか、倒れたここが旅の終わりなのか。或いは自らと出会うために倒れていたのではないかと考え目を逸らした。
恐る恐る男の手の甲に触れ、走る痒みに身を抱えた。体の内側に渦巻く悪寒と熱に戸惑いながら右手の甲を眺め、左手で強く一掻きした。憑いたものが霧散するような感覚に背筋を震わせ、男の顔を見つめる。男の外見が不快なのではない。それは確かだった。しかし、指先で触れる度にその感覚は繰り返した。二度、三度。腕を、首を。一掻きする度に肩口から這い上がってくる苛立ちに眉をひそめ、息を大きく吐いた。
男の視線が動く。枝の向こう側からこちら側。落ちる木の葉から鼻の頭。一時の間をおいて右手を上げる。力なく開いた掌を眺め、ゆっくりと閉じたり開いたりを繰り返した。その手は胸に落とされ、小さく息を吐き、右、左と首を傾けて辺りを見る。横に腰掛けた女を認め、そこでなにがあったのかと目を泳がせた。女の首筋に残る長く赤い爪痕に目を奪われる。女の細い指先が伝い落ちる雫のように流れていく。
「どちらさま?」
女は問いかける。
男は初めての問いに小さく俯き、上体を起こす。右手で口元を押さえ、意識の底を浚う。
「わからない」
憶えているのは泥にまみれた掌と打ちつける雨。何を見て何を感じ、どこを歩いて、ここはどこなのか。目の前にいる誰か。それは返答ではなく独白。自分を見つめた末の反響。男は目を潤ませ、少し震えた声でもう一度言った。
「わからない」
女は大きく瞬きし、伏し目がちに男を見た。わからない。そんなことはわかっていた筈だった。男がなぜこんなところで倒れているのか、少し考えればわかるはずだった。誰もが迷う森に倒れていたのだ。誰もが迷うとされている森に。誰もこの森に立ち入ろうとはしないと知っている。ここは魔女の森。男達が取って喰われる魔女の森。
男には女の悲しそうな表情がわからなかった。わからないことが彼女を悲しませたのだろうか。それとも別の何かが。思いながら男も目を伏せた。
空白の時間。風が歌い、木々が踊る。
二人の間に語るべき言葉はなく、推し量る心当てもない。
女は腰の上で重ねた手を一掻きして口を開いた。
「ついてきて」
言うなり立ち上がり、手を差し出す。男は差し出された手をしばらく眺め、恐る恐る触れるや触れんやというところで震わせた。もどかしさを飛び越え、女は戸惑う男の手首を掴む。男も握り返し、引かれるに任せて立ち上がった。
女の手は火に触れたように跳ね、男は女の苦悶を見て取った。男は自分の手を不思議そうに眺め、女は跳ねた手を押さえつけるように握りしめていた。
痛み。
激しい痛みが女の中を駆け回っていた。涙を流すこともできない。内側から湧き上がる痛み。傷を受けたほうがよほど楽な、毒のような痛み。自らの血と共に流れる痛み。
「……ついてきて」
女の声は震えていた。