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 体が重い。筋肉痛に似た体を動かすことに対する自制のような重さだ。恐る恐る右手で額に触れる。痛みはない。木漏れ日は眩しく、空気は冷たい。なにかを考え始めるのにはもう少し時間が必要なようだ。シャジーチは弱々しく息を吐き、ゆっくりと上体を起こす。

 なぜ自分はこんなところで寝ていたのだろう。思いながらシャジーチは目の裏から溢れる暗闇に抗おうと瞬きをしたり強く目を閉じたりして意識を掴もうとしていた。溢れる暗闇には思い出が映っている。思い出したくない思い出。妻が自分から去っていった日の光景が消えては浮かぶ。キナー……。聡明で、輝いていた。良いものを見つける目が私を見いだしてくれたのだと思っていた。私は腐ってしまったのか? 教えてくれ、キナー。

 シャジーチはキナーの顔が思い出せなかった。美しいと評判になるでもなく、しかし間違いなく醜くはない。黒い靄がキナーの顔を、体を覆っていた。こんなことになるのなら強く心に焼いておくのだったと重い後悔が意識を深みへ引きずり込んでいく。


 『これは裏切り。さようなら』


 短すぎる一文。永遠の離別。薄い紙の飛ばぬようにと重しにされた簪。かつてシャジーチの送った簪。その簪を手にとってしまえば引き返すことはできない。その紙に触れることすらできず泣いたことを今でも憶えている。待てど探せど頼りはなく踏む影もない。残されたミハージィを抱いて周り、哀れみをかう日々の辛さ。

 ミハージィ。思い当たり、シャジーチは周囲を見回す。男に背を預けて手を弄っている。思わず立ち上がり男に声をかける。

「おい」

 男は軽い会釈を返した。

「ミハージィ」

 シャジーチはミハージィに手を差しだし、立つように促す。

 ミハージィは手を掴んで立ち上がり、男に手を差しだした。男は小さく首を振って立ち上がった。そこで手を取っては父親の怒りを買うだろう。無用な争いは避けたかった。

 シャジーチは鼻を鳴らして言った。

「なにをした。なぜ逃げなかった」

 男は下を向いて悲しそうな、困ったような顔をした。

「なにもしてないんだって。あの人にもなにがあったのかわからないって」

 ミハージィが言った。

 シャジーチはミハージィの顔を一瞬見たが男に対する視線は依然厳しいものだった。掴みかかるわけにもいかず、殴りつけるわけにもいかない。男は言ったのだ。痛いから、と。好奇心で触れようとするべきではなかった。シャジーチは狼の話を信じ始めていた。ただ、済んだこととはいえ、痛みは怒りを伴うものだ。男は知っているのかもしれない。だからこそ言葉少なに立っているのだ。シャジーチは大きく息を吸い、吐いた。

「落ち着いた」

 シャジーチは言いながら右手を差し出した。

 男は困った顔を返し、ミハージィがその手を握った。

「そうだったな。戻るぞ」

 シャジーチは馬車のほうへ歩き始め、数歩歩いて振り返った。

「どうした、こないのか?」

 男は困った顔で立っていた。好奇心とはいえ痛みを与えたのは事実だ。続く苦しさがないにしても、それは男にとって心苦しいことだった。小さく頷いてシャジーチの後に続く。

 手綱を握ってシャジーチが言った。

「あの子となにを話した」

「なにも」

「なにも、か」

 シャジーチは先ほどの光景を思い出していた。娘と共に座って穏やかに語ることがどれほど幸せだろうかと考え、自分だったらなにを話すだろうかと考えた。馬車に揺られる日々は長く、話すことなどなくなってしまう。荷物は大丈夫か、腹は減っていないか、そんな詰まらない話しかしてやれない自分を思い浮かべて寂しくなった。男のようになにも話さずにいられるだろうか。そんな考えに首を振り、娘に沢山教えてやりたいこともある。いつか独り立ちするために。幸せな家庭を持つために。

「キナー……」

 シャジーチの呟きを男は聞き流した。誰かの思い出がそこにはあるのだろう。蹄と車輪の音だけがカタカタと続いている。


 どれだけ経っただろうか。シャジーチが思い出したように口を開いた。

「あの子は倒れなかった」

 男は頷いて肯定する。

「そうですね」

 ミハージィが何を感じ、何を感じられないのかを知るときがきたのかもしれない。それとも、知っていたのに知らないふりをしていたのだろうか。

「でも、特別なにもしていません。あの子は平気だった。もしかしたら、あなたが最後だったのかも。でも、試すのは危ないですからね。痛いかもしれません」

「そうだな」

「疑わないんですか?」

「そんなに器用には見えない。これでも商売人は長いことやってる」

 シャジーチは大きな溜息をついて寂しそうな顔で続けた。

「あの子にはお前が必要だ。あの子のあんな顔は見たことがない」

「そうですか?」

 男にはミハージィの表情に明るさや暗さを見いだすことはできなかった。ありふれた少女の表情。抑揚は確かに少ないかもしれない。それにしても、少しばかり大人びている程度のものだ。長く傍にいたシャジーチだからわかるのだろうか。

「贅沢はできんが、一緒に来ないか」

 男は肩の力を抜いて応える。

「ここで下ろしてくれ、なんて言ったら怪しまれるんでしょうね」

 シャジーチは鼻を鳴らして口元を緩めた。

「そうだな。まあ、もう少しで目的地だ。お前さんならいいだろう」

 男は魔女の森での生活を思い出す。スーウェンには悪いことをしたのかもしれない。どうあってもシャジーチとの出会いを避けることはできなかったのだろう。きっと倒れていようといまいと、ミハージィが見つけてしまったに違いない。

 大きく巡る流れ。それとも、これが帰らずの魔女の森なのだろうか。


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